【れ】「霊」と「零」と
夜中に、パソコンが勝手に起動することがよくあった。
電源スイッチの接触の問題だと思って放置していたが、パソコンだけではなく、テレビや洗濯機や電子レンジまで、勝手に動き出すようになった。
決まって、夜である。
布団に入って、少し眠った後に、何かの気配で目がさめる。そうすると、私が目ざめたのを待っていたかのように、電気製品が動き出すのである。
ある夜、私は夜中に目を覚ました。
電気製品が動き出すのだろうと思って闇の中で耳を澄ませていたが、何も起きなかった。しかし、どうも胸騒ぎがして落ち着かなかったので、起き上がって電気をつけた。
部屋の隅に、黒い服を着た人が座っていた。
驚きのあまり、声も出なかった。
その人は小柄な女性で、体育座りをしていた。うつむいているせいで、長い黒髪が顔を隠していた。しかし、黒いパンツスーツに包まれた体そのものはうっすらと透けていて、背後のカーテンの柄が見えていた。
見てはいけないものを見てしまった。そう思って電気を消して、布団にもぐりこんだ。
その後、毎日のように私は目を覚ますことになった。
寝る前にはいなかった女が、夜中に目を覚ますと姿を現している。毎晩見ていると見慣れてくるもので、当初感じた恐怖は薄れてきた。しかし、そんな心の余裕は、すぐになくなった。
目が覚めるたびに、女が座っている位置が、じわじわと私が寝るベッドに近づいてきているのだ。ベッド脇まで近づいてきてはじめて、女が非常に小さな声で何かをぶつぶつ言っていることに気付いた。
「どうして？ どうして？ どうして放っておいてくれないの？ どうして？」
そう延々と繰り返していたのである。
さらに日が過ぎると、女はベッド脇で徐々に立ち上がりはじめた。そして、その夜、私が目をさますと、完全に立ち上がった女が私を見下ろしていた。
「……せいだお前のせいだお前のせいだお前の……」
そうつぶやきながら、髪の毛をかきあげる。卵型の整った顔立ちだったが、目だけが大きく見開かれていて私をにらみつけている。私は迷わずに着替えをリュックへ詰め込み、外に出た。私が荷物をまとめる様子を、女は血走った目でじっと見ていた。
その夜は駅の近くのコンビニで時間をつぶし、翌朝は普通に出勤して仕事を終えたあと、ビジネスホテルにチェックインした。しかし、ホテルでも夜中にまた気配を感じて、目を覚ました。
女は私の胸の上に乗り、微笑んでいた。
「逃げられると思ったら、大間違いよ」
そういうと、女は私に倒れこんできて、消えた。
私は寝巻のまま起き上がると、部屋から出た。足が、勝手に動いていた。ホテルの廊下をはだしで歩き、エレベーターに乗り、ロビーから外に出た。
勝手に、体が動く。
声も出ない。
そのまま路上に出ると、私の体は車道で立ち止まった。
道の向こうから、車のヘッドライトが近づいてくる。大型トラックのようだった。
いやだ。
そう思ったが、体は動かないし、声も出ない。
「逃がさないから」
耳元で、女の声がした。
トラックが近づいてくる。こちらに気付いて減速する気配はない。
全身の力と気力とをふりしぼって、どうにか声を出した。
「私は、あなたを、知らない」
と、不意に体が軽くなって、私は道路の端に倒れこんだ。一瞬遅れて、トラックが通り過ぎていく。
それ以後、私の前に女が現れることはなかった。
女が何だったのかもわからないが、私は女が人違いをしていたことに気付いてくれたのだっと信じている。
なんていう経験は、むろん、ない。
霊体験の回数、零。
一度でいいから、幽霊とやらに会ってみたいものである。
滝澤（2009/10/25）
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