『ファンレター』
電車の中で、ちょっと変わった男を見た。
しじゅう、右の首の筋を浮かせている。二十秒に一度くらいの頻度。
右の首の筋を浮かせる、という状況を、うまく想像していただけるだろうか。鏡を見ながら、ぜひ試していただきたい。首の筋を浮かせるには、かなり力を込める必要がある。口の右側だけに力を入れて、思いっきり「イッ」と横にひっぱる。そうすると、右の首の筋が浮く。
まあ、そんな感じだ。
それを定期的にやっている男が目の前にいるものだから、とても気になる。私は立っていて、その男は座っていたので、表情はわからなかった。が、その人物が熱心に読んでいるものが、つい目に入ってしまった。
かわいらしい便箋に、女性の字。
ほう、ラブレターか。メール全盛の今、自筆の手紙を贈るとは珍しい。他人が受け取るラブレターに興味がない、とは言わないが、盗み読みするのは申し訳ない。読書中の『孟嘗君』（宮城谷昌光）に視線を戻した。がんばれ田文。
しかし。
視野の隅ではあいかわらず首の筋を浮かせる男が、定期的にひくっ、ひくっ、と動いている。
やはり、気になる。
つい、目を向けると……。
あいかわらず、手紙を読んでいる。
が、便箋も字体も、さきほどの手紙とはまったく違っている。ラブレター、二通目？ と、目をはなせずにいるうちに、男はさらに別の封筒を取り出す。三通目。
私も、さすがに少しおかしいな、と思いはじめた。
さては、この男は浮気野郎だな？
見れば、まあまあの男前。首の筋をひくひくさせていなければ、それなりにモテるのだろう。だからといって、人前でこれみよがしにラブレターを続け読みするのも、考え物だと思う。
いよいよ、私は男から目がはなせなくなった。次の封筒。封筒の表には、かわいらしい字で男の名前が書かれていた。ほう、それが男の名前なのか。私の名前と、一文字だけ一致するな、などと思っていた。
次、そしてまた次、と、手紙を取り出しては読みつづける男の様子を見るうちに、私はふと思った。
ラブレターとしては、数が多すぎる。バレンタインデーだとか、そういうイベントの日であればまだしも、普通の三月の初旬の平日に、それほどたくさんのラブレターをもらえるような機会はあるまい。
とすると……男が読んでいるのは、ファンレター？
そこまで考えてしまうと、いてもたってもいられない。
私は男の名前を記憶して、帰宅してすぐインターネットで調べてみた。
出てきた。
俳優であるようだ。
しかし、急に私は、彼のことが心配になってきた。
ファンレターを電車の中で広げて、他人の目にさらされる場所で読む行為は、どうなのだろう？ ファンレターを書いた女性たちの気持ちが、どこかでないがしろにされているような、そんな気がしてならないのだ。
役者は、他人に自分の姿をさらす商売だろう。
首をひくひくしながら、電車の衆人環視の中でファンレターを次々に読む姿が、他人の目にどのようにうつるのか。それをきちんと理解せずに、何が俳優だ。そんなんで、やっていけるのか？
それが、心配だった。
まあ、私の考えすぎであることを、祈りたい。
私はこの文章を書く上で、ひくひく俳優氏のファンたちが読んだらかなり怒るだろうな、と思いつつ、それでも書くことを選んだ。同様に、かの俳優氏も、もろもろのことを理解した上で、あえてあのような行動をとっているのかもしれない。
いや、そうだ、と信じておこう。
同じ電車に乗り合わせたことも、何かの縁なのだろう。
彼の今後の活躍を、心から期待したい。
滝澤（2004/03/07）
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