『咳払いする男』
電車に乗っているとき、私の前に立った男がいる。
男は咳払いをした。
よく響く低音で、短く、「グッ」というような音をたてて。
別に、これだけだったら、たいしたことはない。ああ、喉に何かからんでいて、咳払いをしたいんだろうな。と思うだけである。
ところがこの男、その咳払いを連続するのだ。
電車内に、男の咳払いだけが響く。
「グッ……グッ……グッ……」
あまりにも咳払いをする回数が多いので、私は心配になって男の顔を見た。しかし、男はとくに喉が苦しそうな様子もなく、のんびりと週刊少年ジャンプを読みふけっている。あいかわらず、咳払いを繰り返しながら。
さて、こうなると、私の悪い虫が騒ぎ出す。
まずは、その頻度を調べたくなった。時計で一分間測りながら、男の咳払いの回数をカウントしてみた。最初の六十秒で十一回、次の六十秒で十五回。四〜五秒に一回、といったところか。
次に気になるのは、当然ながら咳払いの目的である。
最初に疑ったのは、何かのタイマーの役割を果たしているのではないか、という理由だ。爆発まで三秒前、チッ…チッ…チッ…どーん。そんな感じ。
しかし、正確に五秒に一回というペースを刻んでいるならいざ知らず、ペースは一定していない。なにか、もっとアナログな理由で咳払いをしているに違いない。
鼻をすするようなものだろうか？ 風邪をひいたときなどに、鼻がたれてくる。鼻をすする。またすぐたれてくる。またすする。その繰り返し。これはかなり可能性が高そうだ。しかし、咳払いを定期的にしたくなるというのは、どういう症状なのだろう。
咳払いをして取り除きたいモノのランキングを作ったら、間違いなく一位はタンだ。ということは、喉にタンが湧き出してくる病気かなにかで、定期的に咳払いをしなければならないのだろうか。湧き出す、咳払い、すこしするとまた湧き出す、また咳払い。
しかし、これだと、咳払いをして体外に排出されるべきタンの群れが、男の口の中であふれてしまうのではないか。
いかん。
かなりホラーな状況を想像してしまった。おえっ、忘れよう。
咳払いのように聞こえたが、実は違うものだった、ということはありえるだろうか？
たとえば、通常の咳払いは息を吐くものだが、息を吸っていたとしたら？
しゃっくり？
それは可哀想だ。おどかしてやれば良かったかな。しゃっくり、止まったかもしれない。
いっそ、まったく別なものだと面白い。
実は彼は狼男で、野獣の咆哮を押し殺していた。丸いものを見ると、ついつい野獣の本能が目覚めて叫びそうになる。たとえば、私の顔のようなものとか。
だから彼は、まるでしゃっくりのように、うめき声をもらしていたのだ。これで、彼の咳払いが異様なまでに低音の魅力に満ちていたことの説明がつく。
もしかすると、誰かとジャンケンをしていたのかもしれない。
ジャンケン、グッ。
あいこで、グッ。
見えない相手とジャンケンするというのは、なかなか特殊な能力の持ち主だ。きっと、電波系なんだろうな。しかも、出すのがいつもグーとは、まるで滝澤みたいじゃないか。
よもや、滝澤の空想の産物ということはあるまいな？
あの男は滝澤の妄想が生み出した幻影で、きっと滝澤の無意識の願望をあらわしているのだ。
まず、週刊少年ジャンプを読みたい。
低音の声になりたい。
電波ジャンケンができるような人間になりたい。
んなわきゃねーだろ、と思いつつ、でも無意識にそう思っているのかしれないとマジで不安になってみたりする。
あーあ、コンビニでジャンプを買ってこようかな。
滝澤（2002/05/29）
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