『寿司屋の猫』
寿司屋に水槽がある。店の外から見える位置にある、ネタになる魚が泳いでいるアレだ。この水槽、壁に埋め込まれていて、その向こうには職人さんが寿司を握っている姿がユラユラ見えていたりするのだが、実際に魚がすくいとられるところを見たことはない。
ところが、そこに猫がいる。
壁に埋め込まれた水槽の手前、わずか数センチの幅のところに、白い猫が乗っているのだ。むろん、水槽の中をのぞきこんでいて、魚の動きを追っている。が、水槽の入り口は店内にあるわけで、そこにいる限り、猫は魚をとることができないのだ。
と、その猫を指差しながら笑っている寿司職人さんの顔が、水槽の向こうで揺れているのが見えた。なるほど、どうやら猫はこの寿司屋のなじみらしい。
その白い猫に挨拶してみると、人なつこい猫であることがわかった。私の差し出した手のにおいをふんふんと嗅ぐと、顔を手にこすりつけてくる。一瞬どこかの飼い猫かとも思ったが、それにしては白い毛が汚れすぎていた。野良で人なつこいということは、よほど可愛がられているのだろう。
もしかすると、寿司屋で魚の切れ端でも与えられているのかも知れない。
よく、自我を持つ動物は人間だけ、という言われかたをしていた。この考え方、最近は否定されつつあるわけだ。
とは言え、
我輩は猫である。名前はいっぱいある。寿司職人の源さんは我輩のことを「タマ」と呼び、中華料理屋の月芳ちゃんはカタコトの日本語で「ちびちゃん」と呼ぶ。最初、彼女は我輩に中国語で話しかけていたのだが、我輩のきょとんとした表情を見て、日本の猫には中国語が通用しないことを悟って以来、ちゃんと日本語で話しかけてくるようになっていた。月芳ちゃんは我輩を抱きかかえるのが好きで、よく我輩の顔に頬をこすりつけてくる。我輩は野良である。そんなことをするとノミがうつるよ、と言ってやりたいが、我輩もまんざらでもないので、月芳ちゃんの中華料理の香りが染み付いた頬をなめてあげるのだ。人の顔をなめるなどというと、猫仲間からは犬のような奴だと言われてしまうかも知れないが……。
というような自我など持っていようはずもない。
さしずめ、
好物のにおいがしたので、そこに行った。人間が何か声を出したので、こっちも声を出した。好物の魚をくれたので、食べた。別ないいにおいがしたので、そっちへ行った。抱きかかえられて不満だったが、こうされた後には食べ物がもらえるので我慢した。
という程度に違いあるまい。
ああ、夢も希望もないねぇ。
滝澤（1998/05/05）
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