『寒椿 ―越後騒動異聞―』
滝澤真実
音もなく、雪が降っていた。
その日、明け方から降り始めた粉雪は、越後高田藩城下、敬覚寺の境内を真白に染めた。敬覚寺の境内には一本の黒松が悄然と立っており、降り積もる雪の重さに枝をたわませている。その黒松の脇には、人目をひく紅色の花が一輪咲いていた。
寒椿である。黒松の脇で、降りしきる雪をかぶりながらも見事な大輪の花を咲かせていた。一面の白雪の中、紅色の花が鮮やかに映えて見える。
その寒椿の前に、向かい合う二人の若侍の姿があった。一人は大柄で精悍な顔立ちの男で、両腕を大きく広げている。もう一人は対照的に小柄な色白の男で、自分の前に立ちふさがっている大きな男を悲しげな表情で見ていた。
「すまんな、与五郎」大きな男、渡辺弥兵衛が野太い声で言った。「お前を行かせる訳にはいかんのだ」
「お前の話はもう聞いた。俺をここに呼び出した用は済んだろう。ならば、頼むから通してくれ」野本与五郎は、色白の手に息を吹きかけ、静かに揉んだ。彼が吐いた息が、振りしきる雪の間で白く漂う。
「だめだ」
決然としたその弥兵衛の言葉に、与五郎は首を振った。
「弥兵衛、お前は変わってしまった……」
「何とでも言え」弥兵衛は断固とした口調で言った。「俺は永見様より、野本与五郎を説得できないのならば斬ってでも阻止しろ、と命じられている。俺には、その命に従うことしかできんのだ」
「…お前は謀殺の片棒を担ぐような奴ではなかったはずだ」与五郎は穏やかに言った。
「謀殺ではない！」弥兵衛は激昂して怒鳴った。「何度言えば判る。ご家老の小栗様を除くことは藩のため。ご家老のこれ以上の専横を許しては……」与五郎の白い顔に冷笑が浮かんだのを見て、弥兵衛は憤然とした面持ちで口をつぐんだ。
「弥兵衛」与五郎はみずからの肩に積もった雪を払った。「通してくれ」
「行って、どうする」弥兵衛は腕を広げたまま言った。「小栗様のお屋敷には、五百余名が詰めかける手筈だ。お前一人の手には負えまい」
「五、六人は斬れるだろう。運が良ければ、もっと多く斬れる」与五郎は、もう一度手に息を吐きかけた。「永見様はそれを怖れたからこそ、お前を差し向けたのだろう？」
「犬死にではないか」弥兵衛はうつむき、ややあってから再び顔を与五郎に向けた。「たとえお前が百人を道連れに斬り死にしようとも、残る四百余名を止めることはできん。俺は、お前とは斬り合いたくないのだ。与五郎、頼むから考え直してくれ」
与五郎は首を横に振る。その目には、強固な意志がみなぎっていた。その目を見て、弥兵衛は説得を諦めた様子で大きくため息をついた。
黒松が雪の重さに耐えかね、枝を大きくしならせて雪を振り落とした。雪が落ちるくぐもった音が、境内に響く。雪煙が上がり、寒椿の紅色が白く霞んだ。
「覚えているか、与五郎」弥兵衛はは雪中の椿を見やりながら、静かに言った。その手は、ゆっくりと腰の太刀に手が伸びる。「昔、二人でこの寺の住職から話を聞いたろう。この寺の椿は、死んでしまった許嫁を雪の中でいつまでも待ち続けた娘の化身だと…」
「覚えている」与五郎も腰の太刀に手をあて、鯉口を切った。「…それが？」
「いや……ただ、思い出しただけだ…」弥兵衛は太刀を抜き、正眼に構えた。
「…最後の一輪だ」与五郎はそう言いながら、すらりと太刀を抜き放った。「雪を忍んで咲く寒椿の季節も、もう終わりだな……」
そのまま二人は身じろぎひとつせず、寺の境内は静寂に支配された。
雪は、音もなく振り続ける。二人の頭や肩には雪が積もっていき、二人が規則正しく吐き出す息は白く広がりながら宙を漂った。
弥兵衛が、じりじりと間合いを詰める。
与五郎は動かない。
海からの一陣の風が、境内を走り抜けた。黒松の枝に残っていた雪が振り落とされ、再び雪煙を上げる。
「やっ！」
瞬間、どちらともなく声が上がった。二人は同時に踏み込み、太刀を鋭く振りながら相手の左をすり抜ける。
風にあおられ、寒椿の最後の一輪が散った。
弥兵衛の首筋から鮮血が吹き出し、純白の雪面を真紅に染める。彼はそのまま雪中に倒れこみ、その大きな体は動かなくなった。
与五郎は倒れた弥兵衛を見下ろす。二度と動くことのない大きな背中には、早くも雪が積もり始めていた。辺りに飛び散った鮮血も、絶え間なく降り続ける雪によって徐々に覆い隠されていく。与五郎は弥兵衛に斬られた左脇腹を押さえた。雪のように白い与五郎の手に、赤い血がべっとりとつく。
彼は顔をしかめながら手についた自身の血を袖で拭いた。そして懐紙を取り出すと太刀についた弥兵衛の血をぬぐい、投げ捨てる。
与五郎はちらりと倒れている弥兵衛を見やってから、抜き身を手にしたまま家老の屋敷へと向かって歩き始めた。
再び風が吹き抜け、与五郎が捨てた血染めの懐紙が、雪空の中へ舞い上がっていった。
寒椿・完
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