『テニスの星』
滝澤真実
テレビ画面の中で、二人の男がテニスをしていた。プレイヤーの一人は、若い日本人。もう一人は、ひょっとこの面をつけた、あやしげな男である。
ひょっとこ面が、サーブをうつ。が、そのサーブは強烈で、若い日本人はレシーブしようとするものの、ラケットをはじかれてしまう。
何度やっても、日本人のほうは、相手コートにボールを返せない。
一方的にひょっとこ面がゲームを取り、今度は日本人のサービス・ゲームになった。
日本人のサーブも悪くはないが、ひょっとこ面は渾身の力を込めて放つ鋭いリターンは、やはり、日本人のラケットをはじいてしまい、ボールは返らない。
日本人が何もできないまま、ただ、ひょっとこ面にポイントが加算されていく。
立て続けにゲームを取られ、日本人の顔が屈辱に歪んだところで、画面が停止した。
「どう、思われますか？」
白衣の女がテレビの脇に立ち、穏やかに言った。白衣には似合わない真紅の口紅が、女の整った顔を際立たせて見せている。
「どうもこうも――」
答えたのは、テレビに映っていた日本人であった。一方的に負けた試合の記憶をよみがえらせた彼は、不満感をあらわにして白衣の女を見た。
「僕が一方的に負けている場面、というだけだろ。他に何か言いようがあるのか？」
「まったく驚きですね、馬場さん。あなたにはその程度の頭しかないのに、テニスの世界ランク第二位までのぼりつめることができたのですから」
そう言い放つ白衣の女の口元が、侮蔑的にゆがんだ。
「なあ、あんた、僕にケンカを売ってるのか？ 僕があのひょっとこ野郎に勝つ方法を、教えてくれるって約束だろ？ だから、忙しいスケジュールをあけて、わざわざあんたの話を聞いて――」
馬場の言葉を、女がぴしゃりと遮った。
「私の名前は、一条です。一条かおり医学博士。脳味噌が筋肉でできたテニスバカに、『あんた』呼ばわりされる筋合いはありません。一条博士、とお呼びなさい」「黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって。僕のどこが脳味噌筋肉野郎なんだ」「じゃあ、質問。九万五二一四かける八六二は？」
「えっ…九万……いくつだって？」
「答えは三八五万四七三三よ。こんな計算もできないなんて、最低の知能だわ」
居丈高に言われ、馬場は口を閉じた。完全に一条博士のペースに巻き込まれて、ぐうの音も出ない。
言葉に窮した馬場を見て、一条博士は満足げに微笑んだ。
「なぜ、仮面テニスプレイヤー、ジーザス・キングは、現在のテニス界で無敵を誇っているのか。それは明白です。彼のショットが強烈すぎて、誰ひとりボールを打ち返すことができないからなのです。しかし私は、研究に研究を重ね、キングのショットを打ち破る方策を編み出しました」
「その、方策って？ もったいぶらずに、教えてくれよ」
思わず馬場は身を乗り出した。
「教えてください、一条博士、と言いなさい」
「教えてください、美人の一条博士」
こうなると、馬場も従順である。
一条博士は、自信たっぷりにうなずいた。
「強力な力に対して、力で対抗しようとしても、おのずと限界があります。力がかかっているときには、力を抜いてすべてを受け止めることも必要なのです。相手が押してくるときには引き、逆に相手が引くときには押す。その力のかけ具合を体得するための、画期的なトレーニング法が、これよ」
不意に、一条博士は馬場に歩み寄ると、キスをした。
馬場は何が起こったのか理解できなかったが、脳味噌筋肉男の例にもれず、反射的に一条博士にキスを返そうとする。とたんに博士は身を引き、馬場は前のめりになった。
馬場が体勢を立て直そうと身を引くと、ふたたび博士がキスをする。
「なんだよ。キスしたいのか、したくないのか、はっきりしてくれ」
不満げに馬場が言うと、一条博士は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「このリズムを、覚えるのよ。このキスのかけひきは、キングとの戦いにも応用できるんだから。さあ、もう一度」
ちゅっ。
「こう？」
ちゅっ。
「違う、ぜんぜんダメ」
ちゅっ。
「これでどうだ」
ちゅっ。
「あっ、なかなかうまいじゃない」
ちゅっ。
「今度は？」
ちゅっ。
「すごい……」
ちゅっ。
ちゅっ。
こうして、二人の特訓は夜明けまで続いた。
そして、六月。
全仏オープンテニス、男子シングルス決勝。かたや第一シード、ジーザス・キング（国籍不明）。かたや第二シード、馬場良（日本）。
ゲームは、キングのサーブで始まった。
いつものように、ひょっとこ面で顔を隠したキングの強烈なサーブが、コートに突き刺さる。馬場はレシーブに走るが、ラケットとボールが当たる瞬間、ボールをやさしく受けとめるように、力を抜いた。
ラケットに受けとめられたボールは、深遠なる宇宙の神秘によって弾き返され、さらにスピードを増してキングのコートへと返る。キングは、よもやボールが返ってくるとは思っていなかったらしく、一歩も動けなかった。
馬場のポイントである。
客席から歓声が上がった。この五年間、誰一人返すことのできなかったキングのサーブが、ついに返された瞬間であった。
「やいっ、このひょっとこ野郎！ 見たか！ いつまでも好き放題できると思ったら、大違いだからな！」
馬場は中指をつきだし、キングにアカンベーをした。
むろん、テニスは紳士淑女のスポーツである。馬場は審判におこられた。
「静かにしなさい、ムッシュー・ババ」
そんな馬場をよそに、キングは泰然とした様子で次のサーブの構えに入る。馬場は慌ててレシーブの体勢を整えた。
二本目のサーブは、センターライン寄りの厳しいコースに飛んできた。しかし、馬場は並外れた運動能力を発揮して、再びボールを打ち返す。
キングが加速度を増したボールを受けようとラケットを振った瞬間、その衝撃のあまりの強さに、キングのラケットは粉々に砕け散ってしまった。ボールはそのまま観客席に飛び込み、コンクリートの階段に大きな穴を穿って止まる。
「見たか！ これぞ秘技、『キッス・レシーブ』だ！」
「おもしろい…」
キングが、ひょっとこ面の内側から、くぐもった声を出した。
「へん、勝手におもしろがっていやがれ」
馬場は大声で怒鳴り返す。
「この私を本気にさせるとどうなるか、しっかりと教えてやろう」
キングの声は、あいかわらずひょっとこ面に遮られて聞き取りにくい。
が、馬場がそのことで悪態をつく前に、審判が警告を発した。
「二人とも、はやくプレーを続けなさい」
プレーが再開され、キングは替えのラケットを使って三本目のサーブを打ち込む。
「キッス・レシーッブ！」
馬場の快心のリターンが、キングに襲いかかる。
猛然とキングはラケットを振ったが、そのスイングは、明らかにタイミングが早すぎた。
が、その次の瞬間、キングのラケットによって巻き起こされた強風が、クレイコートの砂を巻き上げる。そのつむじ風にあおられて、ボールはネットを越えた直後から高々と舞いあがり、ラインの外側に落ちた。
「アウト！」
乾いた音をたてて弾むボールを見て愕然とする馬場に、キングは静かに告げた。
「これが、『ゴッド・トルネード』だ。その筋肉質の脳に、しっかりと刻み込んでおくがいい」
再び、ビデオ鑑賞の時間。
「キッス・レシーブ！」
馬場の鋭いリターンがキングのコートめがけて飛ぶ。
「ゴッド・トルネード！」
キングがくぐもった声をあげ、ラケットを鋭く振るった。そのキングのラケットが起こすつむじ風に巻き上げられ、ボールはコートの外に落ちる。
アウト。
キングの得点。
馬場はなす術なく、ストレート負け。
「さすが、キングね。こんな必殺技を隠していたなんて」
ビデオを止めながら、白衣姿の一条博士は穏やかに言った。
「感心してる場合じゃないだろ」
「大丈夫、対抗策は考えてあるわ」
「どんな？」
「簡単に言えば、『ゴッド・トルネード』を使われる前に、ポイントを決めてしまうことね。たとえば、キングの打った玉を、アウトにしてしまうとか」
「『ゴッド・トルネード』と同じような技を、こっちが先に仕掛ける、ということか？」
「そうよ」
「でも……あのひょっとこ野郎の真似をするのは、シャクだなぁ」
馬場は口をとがらせる。
「それがイヤなら、あきらめて負けなさい」
一条博士は辛辣に言い放つ。
「意地悪な言い方、しないでよ」
「やるの？ やらないの？ やる気なら、新しい特訓メニューを考えてあげるけど」
「やります！」
前の特訓で味をしめた馬場は、大乗り気だ。
「よろしい。では、よくお聞きなさい。テニスラケットのような形状のもので、強い風を巻き起こすためには、かなりの筋肉を必要とします」
「まさか、筋トレ？」
「もちろん。筋力アップのためには、それしかないでしょ？」
「この前みたいなキス・トレーニングは……」
期待していた馬場は、落胆もあらわに尋ねた。
「しません」
一条博士は、あいかわらずクールに答える。
「キス、したいな……」
馬場は未練たっぷりに一条博士を見た。
一条博士は、形のいい眉をひそめて馬場をみつめた。
「それ、どういう意味かしら」
「…いや、その、なんて言うか……す、好きです！ 一条博士！ 今度の全英オープンで僕がキングに勝てたら、結婚してくださいっ！」
思わず口走った馬場は、自分の発言内容に照れて、赤面したままうつむいた。
「やっぱり、キミはちょっとかわいいわね、馬場くん」
おもむろに、一条博士はみずからの白衣を脱ぎ始めた。
「ど、どうするつもり？」
「特訓のメニューを変更するの。筋力アップにつながるような姿勢で、しましょ」
「するって、何を……」
博士は涼やかに笑い、部屋の明かりを消した。
七月。
全英オープンテニス、男子シングルス決勝。かたや第一シード、ジーザス・キング（国籍不明）。かたや第二シード、馬場良（日本）。因縁の二人は、再びあいまみえた。
キングの強烈なサーブに対し、馬場の必殺技が炸裂する。
「馬場タイフーン！」
彼が巻き起こす風は、キングが放ったボールを大きくあおり、吹き飛ばした。
「フォルト！」
「見たか、ひょっとこ野郎！ お前のサーブなんか、屁でもねぇやいっ！」
「人の技を真似しといて、偉そうなことを言うな！ 食らえ、ゴッド・サーブ！」
「馬場タイフーン！」
気合の入った馬場の必殺技に、会場は突風に包まれた。ボールは高々と舞い上がり、会場の外にまで飛び出してしまう。
「…ダブルフォルト……」
もはや常人の域を超えた戦いに、審判が当惑しながら言う。
その後も続く馬場の攻勢に、キングは何もできないまま、そのゲームを落とした。この五年間、一度もゲームを落としたことのないキングに対する馬場の奮戦に、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
しかし、キング本人はさして落ち込むわけでもなく、逆に第二ゲームは馬場のサーブをことごとく『キング・トルネード』で吹き飛ばし、とり返して見せた。
そして、第三ゲーム。
キングがサーブを打つ前に、ラケットを馬場に向けた。
「このゲーム、お前には絶対に取らせん」
「おうおう、言ってやがれ」
「いくぞ、ゴッド・サーブ！」
「なんどやっても同じこと！ 馬場タイフーン！」
キングのサーブを、馬場が起こした風が高く吹き飛ばす。その瞬間、今度はキングがラケットを振り下ろした。壮絶な下降気流が起こり、ボールはたちまちコートに叩きつけられる。
コートの芝を鋭くえぐって、ボールが止まった。
半分コートに埋まったボールを呆然と眺める馬場に、キングが言い放つ。
「馬場タイフーン、破れたり！」
立て続けにゲームを失い、第一セットを取られた馬場は、インターバルに客席最前列に座っていた一条博士に近づき、話しかけた。
「このままじゃダメだ、かおりさん。どうしよう？」
一条博士は馬場と目を合わせずに、どこか遠い目をしたまま答える。
「かおりさん、なんて馴れ馴れしく呼ばないで」
「だって……」
「だっても何もないの。あなたはテニスプレイヤーでしょ？ 勝つために何が必要かくらい、自分で考えなさい。もう、私を頼らないで」
「そんな、昨日の夜だって一緒に、あれだけ特訓を頑張ったのに」
「試合に戻りなさい、馬場くん。特訓は、特訓。今は試合なの。戦わなければならないのはキミで、私じゃないのよ」
「…戦わなければいけないのは、僕……そうか、わかったよ！」
馬場は一条博士のもとを離れると、コートを見た。
すでにキングがラケットを手に、待ち構えている。自信にあふれたそのキングの姿を目にして、馬場は心の中で何かがはじけるのを感じた。
「やい、ひょっとこ野郎。てめー、ここでぶっつぶしてやる！ 僕は絶対に負けないからな！ この手で、貴様を倒してやる！ そして、かおりさんと…」
キングは無言のまま、早く来いと言うように、手招きをした。そして馬場が位置につくのを待って、サーブを打ち込む。
「ゴッド・サーブ！」
「馬場タイフーン！」
「キング・プレッシャー！」
二人の放つ上昇気流と下降気流が激しくぶつかり合い、中空で一瞬静止した。
「負けるか、馬場タイフーン・スペシャル！」
再度振るわれた馬場のラケットから、暴風が放たれる。がキングも負けてはいない。
「なにくそ、キング・ハイパー・プレッシャー！」
両者の放った風がからみあい、乱気流を生んだ。その乱気流のあおりを受けて、審判席が倒れる。
が、ボールは気流に運ばれ、コートの外に落ちた。
アウト。
馬場のポイントだった。
力と力の激突に、馬場が勝ったのである。
しかし、そこには決定的な力の差があるわけではなかった。二人の実力は拮抗しており、時には馬場が勝ち、時にはキングが勝つ。
キングのラケットが空気との摩擦で炎を発すれば、馬場のラケットは静電気によって稲妻を発する。やがて、キングがラケットを振る速度が音速を超え、その衝撃波で馬場が弾き飛ばされた。しかし、血まみれで立ち上がった馬場は、今度は光速を超える速さでラケットを振り、時間の壁を突破してみせた。
まさにテニス史に残る、壮絶なシーソーゲームが繰り広げられた。
乱気流の直撃を受けた観客席の一部が吹き飛び、数名が救急車で運ばれていく。ネットは焼け焦げ、何度も交換された。審判が衝撃波に弾き飛ばされて、会場の外に消えていく。代理の審判は稲妻の直撃を受けて、一時失神する騒ぎにさえなった。
しかし、それでも二人の死闘は続く。
第一セットは六対一でキングが取っていたが、第二セットは四対六で馬場、第三セットは六対七で馬場、第四セットは逆に七対五でキングが取り、試合はフルセットへともつれ込んだ。
その第五セットも大詰め。どちらもゆずらず、試合は延長に入った。延長に入ってからも互角の戦いを続け、ゲームカウントは一二八対一二七、馬場の一ゲームリードでキングのサービスゲームを迎えていた。
すでに、観客席はおろか、テニスコートの周囲一〇〇キロは完全に破壊されていて、草木一本残らない荒野と化していた。それでも、この世紀の決戦の結末を見届けようと、観客たちは身の危険もかえりみず、馬場とキングの戦いに見入っている。
ゲーム前のインターバル、気合みなぎる馬場は、ふと、観客の中に一条博士の姿が見えないことに気付いた。博士が前のインターバルの時までいた場所には、一通の置手紙が残されていた。
「馬場くん。あなたは私がいなくても、きっと勝てます。アスリートとして、テニスプレイヤーとして、あなたはとても秀でた人ですから。でも、アスリートとしては素晴らしいけど、男としてはイマイチでした。それに、やっぱり、必殺技の名前を叫びながらテニスをする人って、ちょっとカッコワルイと思うの。ごめんね。一条かおり」
馬場は、その手紙を握り締めたまま、ショックで身動きできなくなっていた。
「…かおり…さん……」
インターバルが終了して、審判にうながされてコートまで出たものの、馬場は精神的なダメージから立ち上がれずに、まったく体が動かない。
キングが、馬場から立て続けにポイントを奪ったところで、不意に言った。
「どうした、やる気がないのか？」
「…かおりさぁん……」
馬場は、一条博士の置手紙を手にしたまま、ボケーッと突っ立ったままである。
腹にすえかねた様子で、キングはみずからの顔を隠していたひょっとこの面をはずし、大声を張り上げる。
「たかが女にふられただけで、なんてザマだ。かかってこい、良！」
ひょっとこ面をとったキングの顔を見て、馬場は愕然とした。
「父さん……」
そう。キングのひょっとこ面の下から出てきた顔は、まぎれもなく馬場の父のものであった。天才テニスプレイヤーと呼ばれながら、一〇年前、馬場が一二歳のときに謎の失踪をとげた男である。
「良、俺はお前をそんな軟弱な男に育てた覚えはないぞ！ 一緒にテニスの星を目指して頑張ろう、と約束したはずだ！」
馬場の脳裏に、父との記憶がよみがえってくる。
激しくも楽しいトレーニングの日々。
そうだ、僕はまだ、負けるわけにはいかない！ 馬場は一条博士の置手紙を投げ捨て、父に向かって叫んだ。
「父さん、頑張るよ、僕！」
「そうだ、その意気だぞ、良。それっ、ゴッド・サーブ二八号！」
「負けるもんか、超ウルトラ馬場タイフーン・バージョン二〇〇二！」
「ハイパー・キング・プレッシャー・ミレニアム・エディション！」
「まだまだ、馬場サンダー・エクセレント・スペシャル・アンリミテッド！」
「なにを、インフィニティ・キング・ヘルファイヤー！」
渾身の力を込めた必殺技同士が、真正面からぶつかり合う。その加減を知らない馬鹿力が、テニスボールを弾き飛ばした。上へ上へと加速しつづけるボールは、ついに離脱速度を超え、宇宙空間へと飛び出す。
ボールが落ちてこないためにアウトの判定を受けた瞬間、キングはがっくりと膝をついて、血を吐いた。
「父さん！」
馬場が駆け寄る。
「胃癌と診断されて一〇年になる。癌に負けないように気合を充実させ、すべてを捨ててテニスに打ち込んできたが、もうだめだ。…最後にお前と戦えてよかった。私の魂は、お前と一緒に打ち上げたテニスボールの星に乗って、いつもお前を見守っているよ……ぐふっ」
「父さーん！」
馬場は涙を流しながら、空を仰ぐ。
その目には、空を行くテニスボールの星が黄色に輝いて見えた。
（おしまい）
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