『愛と創作の日々』
滝澤真実
僕は医者が嫌いだ。
熱っぽい。食欲がない。頭痛もする。体がだるい。何をする気も起こらない。あまりにも体がだるくて、職場に「今日は休みます」という電話をかける力さえ出ない。固形物が喉を通らず、カルキ臭い水道水だけで三日過ごした。
それでも、僕は医者には行かない。医者に薬漬けにされるくらいなら、病気のままでいい。強欲な金権医者め、何があったって行くものか。
その日、僕は夢を見た。夢の中で、僕は走っていた。ゴールは高速道路を渡った先にあった。道を渡った僕を避けるために、トラックが急ハンドルをきって横転した。そのトラックに、別の車が衝突した。みんなが、事故の責任は僕にあると言って非難していた。そこで、目が覚めた。
時間は夕方の四時。今日は火曜日だろうか、水曜日だろうか、それさえわからない。知りたいとも思わない。口の中が乾いていて、気持ち悪い。重い体を無理に動かして、流しまで歩く。目が回って、流しに吐いた。胆汁がわずかに出ただけだったが、ひどく疲れた。僕は台所の床に倒れ込み、そのまま目を閉じた。
目を閉じても、世界は回っている。僕は回転する渦に、なすすべもなく流されていった。
そしてまた、夢を見た。僕の腕の皮膚が、もごもごと動いていた。やがて、その皮膚を破って、丸々と太った芋虫が出てきた。芋虫は、僕が小学生の時に観察をしていたキアゲハの幼虫に似ていた。そいつは僕の体の上を這い回り、僕は目を覚ました。
目が覚めてみると、久しぶりに気分が良かった。起き上がって水を飲む。ふと腕を見ると、夢の中で芋虫が出てきたあたりが、湿疹か虫刺されのように赤くなっていた。僕は嫌な予感がして、周囲を見回した。窓枠に、サナギがついていた。軽く指先でつつくと、そいつはヒクヒクと尻を振った。
自分の体の中にこいつがいたのだ、と思ったら、再び吐き気が襲ってきた。
僕は、流しに胆汁を吐いた。
久しぶりに外に出た僕は、食料品を買い込んできた。何日も前から点滅している留守番電話のボタンを押し、職場からの「どうした？」というメッセージを何件か聞いた。職場に電話をかけるべきか迷ったが、ばかばかしいのでやめた。
僕がいなくたって、どうってことはないんだ。
そう考えたら、なんでもできそうな気がしてきた。時間はいくらでもある。
僕はサンドイッチをかじりながら、部屋の隅で埃をかぶっていたイーゼルをひっぱりだした。押し入れから、絵の具も出した。
僕は、絵を書いた。
人間の腕。そして、皮膚を食い破って出てくる芋虫。横転するトラック。走る人。それを見ている人。軽蔑のまなざし。畜生、僕を馬鹿にしやがって。歯車として生きることしかできない低能どもが！ 確かに僕には才能がないさ。でも、何もやろうとしない、ただ惰性で生きているだけのお前らとは違うんだ！ 僕は、変わろうとしているんだ！ お前らなんかに、この気持ちがわかってたまるか！ 馬鹿にするんじゃない！ 畜生！ ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおお！
気がついたら、カンバスが裂けていた。絵の具が飛び散っていた。
そのサディスティックな色が、僕は気に入った。
僕は浴室の鏡をはずしてイーゼルに置き、自分の顔に色を塗りたくった。
翌日、かすかな物音がしたので台所に行ってみた。一羽の色鮮やかな蝶が、窓にとりついて羽ばたいていた。窓枠には、抜け殻になったサナギがくっついていた。
こいつめ、僕を食べてこんなに立派になりやがった。
仕返しに殺して食ってやろうかと思ったが、やめた。僕は窓を開け、蝶が外へ飛び去っていくのを眺めた。
青空の下、美しい蝶はゆっくりと、自由に羽ばたいていく。
なんとなく、うらやましかった。
僕は蝶の絵を書いた。蝶の胴体の部分には、極彩色にいろどられた僕自身の顔があった。僕は飛び立たなければならない。僕は自由にならなければならない。しかし、そうするには、僕は弱すぎる。だから、自分に足りないものを補って、僕は変わらなければならない。僕は芋虫。サナギになる瞬間を待っている。
そんな折、近所の家で、可愛らしい子猫が四匹生まれた。育てたいからといって一匹もらい、包丁で首を切り落とし、苦労してさばいて、ゆでて食べた。食べられる部分の少ない、なんとも貧弱な食事だった。
何か違う感じがした。
近所の家の番犬を殺して、その場で生のまま食べた。生は良かった。そのまま僕自身の肉になったように感じる。
これだ、と思った。あの芋虫だって、僕の生の肉を食べていたのだ。
僕は、あちこちを回って、強そうな犬を食べた。何度かは噛まれて、ひどい目にあった。でも、そのぐらい強い犬でないと、僕がわざわざ食べる意味がないような気がした。
しかし、いくら食べても、僕にその瞬間はやってこなかった。いつまでも、芋虫のままだった。これでは羽ばたくことなんかできやしない。何が足りないんだ？ いったいどうすればいいんだ？
僕は、その感情をカンバスに叩きつけた。焦燥感は橙、苛立ちが黄、怒りが赤。孤独感は黒、悲しみは青。その色が混ざり合い、形のない渦となった。
「どうしたんですか？ 会社のみんなも心配しているんですよ」と彼女は言った。僕の顔を見て「大丈夫ですか？」とも言った。「何かお手伝いできることでもありますか？」とも言った。
その言葉を聞いて、僕は彼女の顔を改めて見つめた。心から僕のことを心配してくれているように見える。ああ、僕はなんて愚かだったんだ。こんな近くに、こんな素晴らしい人がいたのに、それに気付かなかったなんて。この数日間の、動物たちの肉を食べていた自分が、とても恥ずかしく思えた。
僕が大きくはばたくために、彼女にも手伝ってもらおう。いや、彼女と一緒にはばたくんだ。大丈夫、彼女ならわかってくれる、そう自分に言い聞かせながら、僕は台所に包丁を取りに行く。そして、言った。
「わざわざありがとう。ちょっと上がってくれる？ 手伝ってほしいことがあるんだ…」
耳の奥のほうに、彼女の悲鳴がまだ響いていた。彼女は抵抗もせず、痛みのあまりに悲鳴をあげただけで、僕に腿の肉をくれた。今は失神している。僕は彼女の腿の肉を食べ、お礼に僕の腿の肉を切り取って彼女の口に入れてあげた。痛くて、僕も失神しそうになった。
彼女の唇から、僕の血があふれる。僕は欲求に負けて、その唇に自分の唇を重ねた。柔らかい唇は予想通り最高で、ぼくはその唇を噛み切って食べた。
「僕のも食べてくれよ」そう言って、僕は彼女の歯の間に下唇を差し入れた。しかし、失神したままの彼女は、僕の唇を食べてくれようとはしなかった。
僕ら二人の血で絵の仕上げをしている時、玄関のチャイムが鳴った。
「警察です、ちょっとよろしいですか？」と、男の声。
「どうしたんですか？」ぼくはドア越しに問い返す。
「このあたりで女性の悲鳴が聞こえたという通報がありまして、聞き込みをしているんです。ちょっと開けていただけますか？」
僕は、とっさに考えをめぐらせた。
警官を食べたら、強くなれるだろうか？
愛と創作の日々・完
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