『小さな奇跡』
滝沢真実
最後の日
空は厚い雲に覆われていた。今にも雨粒が落ちてきそうな空模様である。広場には多くの人が集まっており、主役の登場を今や遅しと待ち構えていた。
「はやく始めろ！」
群集の中から怒声があがり、「そうだ」と応じる声が数ヵ所から聞こえた。雨天のために一日順延されているので、人々はいらだっているのだ。広場の中央には、火薬が仕込まれた長い薪の廊下が準備されている。すでに舞台は整っていた。
と、人垣の前のほうに陣取っていた人々の間から歓声があがった。主役の二名が姿をあらわしたのである。二人はともに黒の僧服を身にまとい、胸からは十字架を下げていた。
「ご覧なさい、修道士フランチェスコ。彼らは主の奇跡を見るために、ここに集まったのです。素晴らしいことではありませんか」広場に集まった人々の熱狂を眺めながら、長身で堂々とした体格の男が言った。
「勘違いをなさっては困ります、修道士ドメニコ。彼らは私たちの血を見たいだけなのですよ」フランチェスコと呼ばれた痩せこけた男は表情を変えず、絞りだすような声でつぶやく。
「主の奇跡を信じないとは愚かな。あなたはやはり、ひどい不信心者ですな」ドメニコは、軽蔑しきったようにフランチェスコを見た。
「私は主の奇跡を信じないわけではありません」小柄なフランチェスコはちらりとドメニコの表情を見やり、すぐに広場に集まった民衆に視線を戻した。「奇跡が起こせると信じているあなたを、私は信用していないだけです」
「何か勘違いをしているようですね、修道士フランチェスコ」たいまつを手にした若い修道士が舞台へ近寄る姿に目を向けながら、ドメニコは言った。「誰も奇跡が起こせるとは言っていません。ただ、主が私をお救いくださるために奇跡を起こされるだろう、と言っているだけなのです」
若い修道士がたいまつを舞台に投げ込んだ瞬間、轟音とともに巨大な炎があがった。民衆の歓声が、一段と高くなる。
「まあ、よろしいでしょう。すぐにすべてが証明されます」フランチェスコは胸の十字架に手をやりながら、炎の廊下へ向かってゆっくりと足を踏み出した。「お先に、修道士ドメニコ」
「主の恩寵に対して証明などと、よくもそんなおこがましいことが言えますね」
このドメニコの冷淡な言葉には耳を貸さず、フランチェスコは炎に向かって一歩、また一歩と進んでいく。彼は歩きながら胸の十字架を握り締め、天を見上げながら祈りの言葉をつぶやいていた。
「主よ、お赦しください……」
フランチェスコが炎の廊下に足を踏み入れると、彼の僧衣の裾が燃え上がった。フランチェスコの表情が歪む。しかし、それでも彼は足を止めず、炎の中に消えていった。
続いて、ドメニコが自信たっぷりの歩調で炎の廊下の前まで進み、集まった民衆の歓声に応えて高々と手をあげた。そして、ためらいもなく炎の中に入っていく。
民衆は静まり返り、炎に包まれた廊下の出口を固唾を飲んで見つめた。
広場には、炎の燃える音だけが聞こえていた。
前日
フランチェスコはその細い体を折り曲げるようにして、祭壇の前にひざまずいていた。夜の礼拝堂は暗く、ロウソクの炎が弱々しい光を投げかけている。
「主よ、お赦しください……」
誰もいない礼拝堂に、フランチェスコの声が響く。
「私は明日、この身が滅ぶことを知っています。知っていながら、それを避ける道を選びませんでした。主の教えにある、自殺の禁を破ろうとしているのです。やはり私は、地獄へ落とされるのでしょうか？」
フランチェスコは、祭壇の上にあるキリスト像を見据えた。
「しかし、他にどうできたのでしょう。私は誓いました。多くの人に福音をもたらす、と。自殺の禁を破ってでもその誓いを守るのと、誓いを放棄してまで生き永らえるのと、どちらが正しい選択だったのでしょうか？ 主よ、私は…私は……」
フランチェスコはうなだれ、両手を握り合わせる。
「主よ、罪深い私をお赦しください。奇跡をもって救って欲しいなどということは申しません。せめて、私を永遠の炎で焼かず、おそばへお迎えください。私の犯した、そしてこれから犯そうとしている罪を、どうかお赦しください……」
隙間から吹き込んできた風でロウソクの炎が大きく揺れ、かすかな音をたてた。
フランチェスコは、祈り続けた。
前々日
ドメニコが、説教壇の上からよく響く声で聴衆に語りかけていた。
主の御業を伝え、主の言葉を伝えるのが選ばれた自分の務めである。その神を試すような行為は誰であろうと許されるべきではない。しかし修道士フランチェスコは、愚かにも「炎の試練」をもって挑戦してきた。この炎の試練によって修道士フランチェスコのような不信心者は炎に焼かれてしまうだろうが、自分は違う。主に守られているから、袖も焦がさずに炎の道を通り抜けるだろう。フィレンツェの人々よ、ついに奇跡をその目に焼きつける時がきたのだ。
そう語ったドメニコは、盛大な拍手に送られながら説教壇を下りた。続いて堅い表情のフランチェスコが説教壇に上がったが、がっしりとしたドメニコに比べると、痩せた体の彼は見るからに貧相で見劣りがする。
フランチェスコは聴衆からのまばらな悪罵に迎えられたが、堅い表情を崩さずに語りはじめた。
「まず、私たちは、知らなければなりません。考えなければなりません。何が本当で、何が嘘なのか。ですから、明後日に広場でおこなわれることを、しっかりと皆さんの目で見ていただきたいのです。そして、見たものが何を意味しているのか、それをみなさんの頭で考えていただきたいのです。私が望むのは、それだけです。預言者を名乗る偉大な修道士ドメニコも、それを望んでいることでしょう」
フランチェスコは、ドメニコの顔をちらりと見る。昂然とした表情で見返すドメニコの視線に、フランチェスコは気おされたようにうつむいた。
「私が望むのは、ただそれだけです…」
フランチェスコはか細い声で言うと、説教壇から下りかけた。しかし、何かを思い出したように足を止め、再び聴衆へ顔を向ける。
一瞬、何が起こるのかと、聴衆の視線がフランチェスコに集中した。
「愛すべきフィレンツェの皆さんが、真偽を見分ける確かな目を持つことができますように。……そして…主のお恵みを…」
雨の夜
夕暮れから降りだした雨が炎を消し、焼け焦げた黒い残骸を静かに叩いていた。辺りには、後片付けのために残った数人の役人の姿しか見えない。
焼死体のうち一体は廊下の入り口付近に、そしてもう一体は出口付近に転がっていた。
「しかしこいつ、どうやってここまで進んだんだろうな」出口付近に転がる焼死体を指し、役人の一人が言った。「あの炎の中、こんな奥まで進むなんてなあ…」
「こいつはドメニコか？ それともフランチェスコか？」
「さあ…これだけ焼け焦げてちゃ、区別なんかつかねえよ……」
「まあ、どっちでもいいか。早く片付けて引き上げようぜ」
「そうだな…」
翌日、降り続く雨の中、二人は同じ墓碑の下に埋葬された。
小さな奇跡・完
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