『名残り星夜』
滝澤真実
「ただいま」と言おうかどうか、俺は迷った。
俺は額に浮かんだ汗を袖口で拭き、玄関の引き戸に手をかけた。すっかり立てつけの悪くなってしまった戸をガタガタいわせながら開け、暗い家の中をのぞき込む。カビと線香のにおいが、湿気に満ちた熱気とともに、家の中にこもっていた。
「誠？」音を聞きつけたのだろう、奥から母の声がした。
「うん…」やはり、ただいま、とは言えなかった。
俺は家の中に入り、後ろ手で引き戸を閉めようとした。しかし、戸は途中でひっかかって止まってしまう。無理に閉めようとして力を込めると、戸は大きな音をたててはずれてしまった。
俺が舌打ちするのと、奥から出てきた母が言うのが、同時だった。
「おかえり」
俺は母を見た。この半年で、かなりやつれたようだ。白髪の多かった髪の毛は、今ではずいぶんと薄くなってしまっている。もともと痩せてはいたが、以前にもまして体重が減ったようだった。それに、腰もいくぶん曲がって見える。
俺は母から目をそらし、玄関先に着替えを入れてきたバッグを置くと、はずれた戸を直すために外へ出た。
「この家も、もうだめだねぇ。あちこちガタがきて…」母の弱々しい声が聞こえた。
強い日差しが、はずれた戸をレールの上に乗せようと悪戦苦闘する俺の背中をあぶった。汗が吹き出し、頬から顎のほうへ伝い落ちる。俺はその汗を肩口で拭き、戸をレールの上に押し込むようにして乗せた。
突然、頭上で何かがバタつく音がしたかと思うと、蝉がけたたましく鳴きはじめた。まぶしい日差しに目を細めながら見上げると、軒先に羽の茶色いセミがしがみついているのが見えた。
俺は蝉の声を聞きながら、もう一度、肩口で汗を拭いた。
＊ ＊ ＊
油のきれた扇風機が、きいきいと音をたてながら首を振っていた。線香の煙が、その風にあおられて揺れている。俺は父の面影を思い出しながら、まだ真新しさの残る位牌に手を合わせた。開け放たれた窓の外からは、セミの大合唱が聞こえている。
「ごめんね、暑くて」母は細い声で言った。「クーラーが壊れちゃってね…」
俺は母が出してきてくれたタオルで顔の汗をぬぐうと、母のほうへ向き直った。
「それより、体の具合はどう？」
「ああ、あれからなんともないよ」母は力のない笑顔を作った。
「うちは心臓病の家系だからな。気を付けてくれよ」俺は立ち上がって、窓の脇にあるクーラーのダイヤル式スイッチをひねった。が、クーラーは動かない。「電器屋に電話して、修理してもらいなよ。極端な暑さや寒さは、心臓に負担をかけるって言うし」
「そうだねぇ…」
俺は壊れたクーラーのスイッチをオフに戻し、母と向かい合う格好で腰をおろした。母は俺と目が合うと、小さく息を吐き、父の位牌が置かれた仏壇へ視線を泳がせた。
俺も母につられるように、仏壇を見た。
「もう、半年か…」
母は、何も言わなかった。
外から聞こえてくる暑苦しい蝉の声が、熱気とともに体にじわじわと染み込んでくるように感じられる。首を振りながらモーターの音を低くうならせていた扇風機が、きい、と鳴った。
俺は、タオルで汗をぬぐった。
「…で、兄貴は結局、どうなったの？」俺は母に視線を戻して、言った。
「仕事が忙しいらしくてね、来月にならないと体があかないんだって」
「まったく」俺は舌打ちをした。「父さんの新盆だってのに、どういうつもりなんだろうな。仕事、仕事って…」
言ってから俺は、しまった、と思った。
「仕事っていえば」母の心配そうな視線が、俺に向けられる。「次の仕事は、見つかったの？ お金はまだ大丈夫？」
「大丈夫だよ」俺は自分の声にいらだちが満ちてくるのを感じながら、言った。「なんとかやってるから、心配しなくていい」
「今は陽子さんが働いているから、なんとかなっているだろうけど。でも、結婚っていうことになったら…」
「心配いらないって言っただろ！」俺は立ち上がって、玄関へ向かった。「ちょっと、その辺をぶらついてくる」
「誠、陽子さんと、何かあったの？」敏感に事情を察したらしい母の不安げな声が、背後から聞こえた。
職を失ってからというもの、もう嫌になるほど母の憐れみに満ちた言葉を受けてきた。これ以上は、とても耐えられそうにない。
俺は母の声には答えず、外へ飛び出した。後ろ手で閉めようとした玄関の引き戸が、音をたててはずれる。
畜生……。
はずれた戸をそのままにして、俺は家から離れた。
＊ ＊ ＊
肌にまとわりつくような湿気が、俺の周囲に満ちていた。あてもなく歩く俺を、強い日差しが容赦なく照りつける。アスファルトからの照り返しと、クーラーの室外機が吐き出す熱風が、俺の体から汗を絞り出していった。
田畑をつぶし、山を切り崩して作られた住宅地が、広がっていた。幼い頃に友人と虫を捕りに行った自然は、無機的な家々の姿にとって変わられている。それに、その仲の良かった友人でさえ、消息を聞かなくなってからもう十年が過ぎていた。
何もかも、変わってしまった……。
その急なのぼり坂は今のように舗装されておらず、凹凸の激しい砂利道だった。坂をのぼった先にあったのは住宅地ではなく、水と緑に満ちた田園だった。細い農作業用の道路の先には松林があり、その松林の手前には小さな小屋があった。小屋には老人が住んでいて、いろいろな話をしてくれた。
老人は、松林をさらに奥へ進んで行ったところにある池の話をしてくれたことがある。池には大きな亀が住んでいて、その姿を見た人は幸せになれるという話だった。俺と友人は池を見つけたが、結局亀を見ることはできなかった…。
俺は、ひしめくように建っている真新しい家を横目に、歩き続けた。
太陽が俺の腕をじりじりと焼き、汗が流れ落ちる。シャツの袖で顔の汗をぬぐおうとしたが、すでに汗を充分に吸ったシャツは、ほとんど役に立たなかった。
畜生。
俺は同様に汗でべたつく手の甲で顔をぬぐいながら、周囲を見回した。しかし、どちらを向いても個性のない家並しか見えない。そこはちょうど、亀の話をしてくれた老人の小屋が立っていたあたりのはずだったが、その名残りはどこにもなかった。
俺は無意識のうちに、池があったはずの方向へと足を向けた。あの池なら、まだ残っているかも知れない。そんな気がした。
俺は、歩いた。
蝉の声を背景に、アスファルトを蹴る乾いた音が静かに響く。
道を進むにつれて、周囲には空き地が目立ちはじめた。やがて空き地はまばらな林に変わり、舗装道路は砂利が敷きつめられた道になった。そしてその砂利道が木々の間へ消え入っていくような細い山道に変わると、俺の脳裏には友人とともに池を目指した時の記憶が蘇ってきた。
ここだ…。
俺は確信して、足をはやめた。木々に覆われて見通しのきかない山道。道に張り出した枝を、腕ではらいのける。靴が柔らかい黒土にめりこむ。鳥の鳴き声がする。蝉の声と羽音が聞こえる…。
そして、記憶の中にあるそのままの風景が、俺の目に飛び込んできた。
それは直径十メートルほどの池だった。池の上には大きな広葉樹が枝をせりだしていて、水面に影を落としている。木の葉の間をすりぬけて差し込む太陽の光が、水面で反射して何かの宝石のようにキラキラと輝いていた。池のまわりの空気は不思議と蒸し暑くなく、心地良かった。
俺はひんやりとした池のほとりに腰をおろし、そして、目を閉じた。
強い土のにおいがする。緑のにおいと、水のにおいもした。かすかな風が木の葉を揺らす音を背景に、蝉の声と鳥の声が聞こえていた。
俺は目を閉じたまま、自然の香りに満ちた冷たい空気を、胸一杯に吸い込んだ。
＊ ＊ ＊
気配を感じて、俺は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったようだ。あたりはもう真っ暗で、低い虫の鳴き声に満ちている。どこかで盆踊りをやっているらしく、聞き覚えのある節まわしの笛と太鼓の音色が、漂うように聞こえていた。
そして、俺の左どなりには人が立っていた。
俺は思わず身を固くして、その人物を見た。星明かりの中でかろうじて姿が見えたその人物は、年配の男のようだったが、かなりがっしりとした体格をしている。
ふと、その人物がゆっくりとこちらに顔をむけた。一瞬、暗がりの中で、特徴的な形の太い眉と、大きな目が見えたような気がした。その顔は、俺がもっとも信頼していた男の顔にそっくりだった。
父さん！
そんなはずはない！
ふたつの相容れない考えが、俺の頭の中で渦巻いた。俺のとなりにいるのは死んだはずの父ではないのか？ いや、父は半年前に死んだのだ。父がここにいるなどということは、ありえない…。
男は、腕をゆっくりと動かすと、人差し指を立てて口にあてた。そして、その指を空に向ける。
その仕草で、俺の記憶が呼び起こされた。幼い頃、俺と兄は父に連れられて、よく星を見た。父は必ずと言っていいほど毎回、指を口にあてて俺と兄を静かにさせてから星を指し、その星にまつわる神話を話してくれたのだった。ペルセウスとアンドロメダの話、巨人オリオンの話、英雄ヘラクレスの冒険の話…。
俺は、男の指が向けられている方向を見上げた。
木々に囲まれているせいで夜空はわずかしか見えなかったが、その狭い空は驚くほど多くの星で満ちていた。その中でも、ひときわ美しく輝いている星がある。その星の近くには三つの暗い星があり、小さな四角形を作っていた。
明るい星はヴェガ、四角形は琴座だ。
死んだ妻・エウリディケを返してもらうために、死者の国へおもむいた歌い手・オルフェウスの竪琴。オルフェウスは美しい歌声で死者の国の王・ハーデスの心を動かし、妻を返してもらうことを承諾させる。しかし、家に帰り着くまで絶対に妻を振り返って見てはならない、という約束をやぶったために、オルフェウスは愛する人を永遠に失うことになった。
結局、死者は帰らない…。
俺はハッとして、となりを見た。しかし、そこにはもう、誰もいなかった。
ただ闇の中に、低い虫の声と盆踊りの音楽だけが、静かに漂っていた。
＊ ＊ ＊
帰り道をゆっくり歩きながら、俺は星空を見上げていた。
綺麗だった。
考えてみれば、ずいぶんと長い間、俺は星を見ていなかった。とくに父の突然の死以来、俺にはその余裕がなくなっていた。
畜生、変わったのは周りじゃなかったんだ…。
家が近づくにつれて、盆踊りの音楽は遠のいていく。そして、家に着いた頃には、もう何も聞こえなくなっていた。
父さんに会ったと言っても、母さんは信じてくれないだろうな…。
そう考えながら玄関の引き戸に手をかけ、そして俺は気づいた。はずれたままにしていたはずの戸は、ちゃんとレールの上に乗っている。母が直したに違いない。
母が苦労しながらはずれた戸を直している姿を想像し、俺はひどく悪いことをした気分になった。
何か埋め合わせができればいいが…。
俺はそう思いながら、たてつけの悪い玄関の引き戸を慎重に開け、そして、言った。
「ただいま」
名残り星夜・完
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