『吐くまで食え』
滝澤真実
部屋は暗く、棺のように静まり返っていた。
健一は部屋の片隅に置いてあった茶色いボストンバッグを持ち上げると、その中から銃を取り出した。
鈍い光を放つ銃のひんやりとした感触をたしかめるように、健一はその人殺しの道具を手の中でもてあそんだ。
壁に向かって、構えてみる。
そして、引き金をひいた。
弾倉を入れていない銃は、音もたてなかった。
彼はボストンバッグの中から弾倉を二つ取り出すと、銃と見比べた。銃と弾倉の両方がそろってはじめて、銃はその効果を発揮する。
健一は銃口を自分のこめかみに押しつけ、引き金をひいてみた。
むろん、何も起きない。
彼はため息をつきと、銃と弾倉をバッグに戻した。
おもむろに立ち上がると、健一は電話を手にして、瞳の部屋の番号を押した。五回の呼び出し音のあと、留守番電話に切り替わる。今朝から何度も電話しているのだが、今日は家にいると言っていた瞳は、まったく電話に出なかった。
電話番号を押し間違えたかもしれない。
そう思いながら、もう一度健一は瞳の部屋に電話をかけた。今度は電話番号を確認しながら、ゆっくりと。
話中だった。
彼女は部屋にいるんだ―。
健一は期待に胸をおどらせて、みたび瞳の番号を押した。
とたんに、冷たい録音音声の応答が返ってくる。
「おかけになった番号からは、おつなぎできません…」
健一は、息をのんだ。
着信拒否。
そんなにイヤなのだろうか？
友達でいよう、と言われたから、そうしていたのに。できるだけ異性として見ないように心がけていたのに。本当は抱きしめて、唇をむさぼり、押し倒してしまいたかったのを、必死になってこらえていたのに。
健一は、握り締めていた受話器を置いた。
手が、ふるえていた。
胸が苦しくて、息をするのがつらい。
健一はあえぎながら、ベッドに倒れ込んだ。二日前、彼は瞳にベッドを使わせ、自分は床に寝た。今、瞳が使った枕に顔をうずめていると、彼女がつけていた香水の残り香が、健一の鼻をかすかにくすぐる。
枕を強くかき抱くと、健一の目からは自然と涙があふれてきた。
瞳は、気がつくと健一のそばにいて、あれこれ世話を焼いてくれていた。彼女は陽気で、にぎやかに笑い、一緒にいる健一の心をなごませてくれた。昔から異性に相手をされたことのなかった彼にとって、瞳と一緒にいる瞬間の安心は、生まれて初めて経験する心地よさであった。
自分の人としての価値を、認めてもらえる喜び。
それは、誰も好きにならない、とかたくなに心を閉ざしていた健一を大きく変えた。彼はいつのまにか瞳を好きになっていて、彼女を特別な存在として意識するようになっていたのである。
「唯一の人」を見つけた、と彼は思っていた。
しかし、健一が彼女に思いを告げたとき、彼女は異性としての関係を拒絶した。だから、二日前に部屋へ泊まりにきた彼女に対して、健一は指一本ふれることさえしなかったのだ。
その結果が、これである。
ずっと一緒にいたい、という望みはかなえられないのだろうか？
必ず別れは訪れるのだろうか？
誰かにとっての「唯一の人」になりたいというのは、高望みなのだろうか？
健一が彼女の意思に従っているつもりで自身の欲望を抑えこんでいるうちに、彼女は離れていってしまった。
すべて、終わったのだ。
名状しがたい喪失感が、健一の心の内に満ちていた。
枕から香る瞳のにおいに、健一の中で長いあいだ抑えていた欲望が反応する。欲望は股間の硬直という形であらわれ、健一は無心でベッドに股間をこすりつけた。
服を着たまま、こすりつける。
ただ、腰を動かしつづける。
枕に顔をうずめて涙を流し、瞳の残り香で胸を満たしながら。
股間にうずくしびれは、やがて制御不能になり、健一の体は大きくふるえた。そして、ふるえとともに、トランクスの内側に精液が放たれる。
健一はそのままの体勢で、泣きつづけた。
泣きつかれたのか、いつのまにか眠っていたらしい。
健一が目を覚ますと、外は明るくなっていた。
股間にはにぶい痛みが残っており、皮膚とトランクスが乾いた精液ではりついていて、不快だった。口の中が苦く、吐き気がした。
そんな自分に鞭をうって健一は起きあがり、汚れた下着を脱ぐと、シャワーを浴びた。
いつもよりも熱い温度に設定したシャワーが、健一の肌を刺激する。叫びたくなるほど熱い湯を浴び、皮膚に強い痛みを感じながら、ようやく彼は自分が生きているのだ、という確信を得た。
痛みは命のあかし。
こうして、何度も痛みを感じながら、それでも生きていくしかない。
だが、人生には痛みしか存在しないのなら、なぜ生きているのか？
痛みの果てにあるはずの幸福を信じられないのなら、なぜ死んでしまわないのか？
浴室から出た健一は、髪も乾かさずに服を着ると、銃の入ったボストンバッグを手に、部屋の外へ出た。
数週間前、健一はその銃の入ったバッグを、街はずれの雑木林を散歩していたときに拾った。雑木林には、空きカンから不法投棄された冷蔵庫にいたるまで、大量のゴミが放置されている。その中に、バッグはなにげなく置かれていた。
好奇心からバッグを開けて中身を知った健一は、迷わずそれを自分の部屋に持ち帰った。
強力な、道具。
その力ゆえに健一は、いつも銃を持ち歩いていたいという欲求に駆られていた。
しかし逆に、健一は銃をもてあましてもいた。
いつか、誰かを撃ってしまうかもしれない、という想像は、彼の心に恐怖と興奮を同時に呼び起こしていたのである。
部屋を出た健一は、近所の商店街に向かった。
街には、人があふれている。しかし、健一にはそれがロボットの群れのように見えてしかたがなかった。
幸福な、ロボットの群れ。
街角の電柱に寄りかかり、通りを歩く人々を眺めながら、健一は首をかしげた。
みんなは生きていて、痛くないのだろうか？
ロボットでいることが苦痛ではないのだろうか？
ロボットであるような仮面をつけていることに、疑問を感じないのだろうか？
こんな痛みを抱えているのは、自分だけなのだろうか？
一人でいるということ。孤独であるということ。それは、避けられないはずのことなのに、どうして自分以外の世界には、幸福が満ちているように見えるのだろう。
健一の中で、どす黒い嫉妬が渦巻いた。
みんな、壊れてしまえばいいんだ。みんな、きらいだ。だから、ぜんぶ、なくなってしまえばいいんだ…。
彼は空想の中でバッグから銃を出し、人々に向けた。
周囲の迷惑もかえりみず、商店街の真ん中でベタベタとくっついて、通行を妨害している若いカップル。
バン、バン。
自転車にまたがり、けたたましくベルをならして、通行人をどかそうとしている中年女性。
バン。
横いっぱいに広がって歩くスーツ姿の三人組。
バン、バン、バン。
赤ん坊を抱いた、幸せそうな母親。
健一は、ためらった。
想像の中で無差別に人を撃っていた自分がひどく情けなく、むなしかった。
僕は何をやっているんだろう。
こんなヤツだから、瞳にも嫌われてしまうんだ。
くだらない。
なにもかも、くだらない。
健一はふらふらと、街のはずれの雑木林へと向かった。とり返しのつかないことをしてしまう前に、銃を拾った場所へ捨ててしまおう、と思っていた。
しかし、銃を捨てよう、という決意は、実際に雑木林までやってきてみると、揺らぎはじめていた。このまま銃を捨ててしまうのが、もったいないように思えてくる。
この先、銃を撃つチャンスなど、ないかもしれない。
捨てる前に、一発だけ、空きカンでも撃ってみよう。
一発だけ。
健一はバッグをあけると、銃と弾倉を取り出した。そしてハリウッド映画の中で刑事がやっていたように、弾倉を差し込んで銃の上部をスライドさせ、薬室に銃弾を送り込んでみた。
これで、安全装置さえはずせば、撃てる。
一発だけ、一発だけだ。
健一は自分にそう言い聞かせ、おそるおそる銃の安全装置をはずした。
「おい、そこで何やってるんだ？ ゴミはちゃんと―」
背後から突然声をかけられた瞬間、健一は何も考えず、ただ機械的にふりむいて、銃を撃った。
轟音で耳が痛い。
衝撃で腕が痛い。
銃から飛び出す金色の薬莢が、きらきらと宙を舞う。
白煙がただよい、火薬のにおいがした。
そして、地面に倒れ込む、白髪の男。
健一が倒れた男を見ると、男は腹をおさえて苦しんでいた。口がぱくぱくと動いているが、声は出ていない。健一は男を見下ろし、低い声でたずねた。
「痛いですか？」
男は呆然とした表情のまま、小刻みにうなずいた。男の腹に、みるみる血のしみが広がっていく。
「今、解放してあげます」
健一は言うと、男の頭にねらいをさだめ、引き金をひいた。
何度も、何度も。
顔の半分以上が吹き飛んだ男を見てひとしきり吐いたあと、健一はよろめきながら雑木林を飛び出し、通りに出た。
通りを走ってきた一台の白い乗用車が、その健一の手前で急ブレーキをかけたが、間に合わずに健一に接触する。あまりスピードは出ていなかったが、健一は車のバンパーに押されるようにして、倒れた。
「すみません、大丈夫ですか？」
運転席から女が飛び出してきて、健一に声をかけた。
健一はゆっくりと立ちあがると、女に銃を向ける。が、引き金をひきかけた彼の指が、硬直した。
女は二十代のなかばくらいの年齢で、大きく魅力的な目をしていた。その目が、健一に瞳の目を思い出させたのだ。
健一は女の腕をとると車の運転席に押し込み、みずからは後部座席に乗りこんで、うしろから女の頭に銃を突きつけた。
「車を出してください」
健一の言葉に従って、女は車を発進させた。
「どこに、行くんですか？」
女の声はふるえていた。
バックミラー越しに見える女の目が、健一の心を乱す。
「どこでもいいです」
「どこでもいい、じゃ困ります」
「じゃあ、山に。できるだけ人のいなさそうな場所、お願いします」
「わかりました…」
女の目が不安げに揺れた。瞳が健一に、電車がなくなったから泊まっていい？ と尋ねたときの目に、そっくりだった。
「僕は吉野健一。あなたは？」
「鈴木孝子、です」
「すみません、鈴木さん」
突然、健一の目から涙があふれてきた。
「すみません」
もう一度言うと、健一は涙をぬぐいながらバックミラーにうつる孝子の目を見た。彼女が運転をしながらときおり健一に向ける目の中に、わずかな理解の色が見えたような気がした。
「謝る必要、ないですよ」
孝子は明るい口調で言った。
「どうしてですか？」
「わたし、イヤなことがあったから、気分転換に車を走らせてたんです。話相手ができて、ちょうど良かった」
「そうですか…」
「高尾山でいいですか？ あんまり道にはくわしくないんですけど、この辺からなら、たぶん一番近い山でしょ？」
孝子は言ったが、健一は答えなかった。
「吉野さん？」
しばらくして、孝子がたずねる。先ほどとは一転して、今度は暗く沈んだ声だった。
「なんですか？」
「山に行ったら、どうするんですか？」
「決めてません」
「わたし、あなたに殺されちゃうのかな」
健一が驚いた顔をすると、孝子はちいさく笑った。
「それとも、あなたに犯されちゃうのかな」
「いいえ、それは絶対にありません」
思わず健一の声に力が入る。
「そう。ちょっとだけ安心した」
孝子の言葉を聞きながら、健一は手にした銃に目を落とした。ずしりと重い、金属の塊。一瞬で人間の命を奪うもの。
発作的に、健一は銃口を自分のこめかみに押しあてると、引き金をひいた。
なにも起こらない。
すぐに弾切れだと気付いた。雑木林で白髪の男を撃ったときに、弾を撃ち尽くしていたのだ。
健一は空になった弾倉を引きぬくと、ポケットにしまっていたもうひとつの弾倉を入れ、装填した。
と、車が急停止する。
「こんなところで、死なないでくださいね」
孝子が言った。
見ると、彼女はバックミラーの向こうから、健一をじっとにらんでいる。
「どうしてそんなことを言うんですか？ 僕なんか死んだって、ぜんぜん―」
「私のまわりで人が死ぬのは、もうイヤなんです」
きっぱりとした孝子の口調に、健一は言葉に詰まった。孝子はさみしそうに微笑み、つづける。
「死は、残酷なんです。わたし、それがイヤなの」
そう言う孝子の目は、瞳が健一の部屋を後にしたときの目に似ていた。
孤独で、傷ついていて、疲れ果てた、痛々しい目。
「わたし、もう、イヤなの」
孝子が繰り返した瞬間、健一は衝動に駆られて、彼女の体を運転席ごと抱きしめた。彼女は一瞬、抵抗するように彼の腕をつかんだが、そのままじっとしている。
孝子の胸元に触れた手を通じて、健一は彼女のあたたかな体温を感じた。
健一の腕をつかむ孝子の手に、力が入る。
「あなたが違う人なのは、わかってる。でも、コウくん……って呼んでいい？」
「君を瞳と呼んでいいなら」
つまらない代償行為だ、と思いながらも、健一は孝子を抱く腕に力を入れた。
その腕に、熱いしずくが落ちてくる。涙だ、と健一が気付くよりも先に、彼女は切実な声をもらした。
「コウくん、どうして死んじゃったの？」
「僕はここにいるよ、瞳」
「コウくん、私、ひとりはイヤだよ…」
運転席のシートが倒された。二人は正面から抱き合い、たがいの脚をからめる。
彼女の体は見た感じよりもがっちりとしていて、大きく感じられた。健一は、骨がきしむほど強く、孝子の体を抱きしめた。
抱きしめられた孝子は、あえぎながら健一の首にかみつく。彼が痛みのあまりに声をあげると、彼女は今度はその傷口をなめた。健一は彼女の髪をつかんで顔を起こす。見ると、彼女の口元は健一の血で赤く染まっていた。
健一は、その唇を吸う。孝子は彼のシャツをまくりあげ、背中に鋭く爪を立てた。
首から流れ出す血を感じ、背中に突き刺さる爪の痛みを感じ、自分の血の味を感じ、孝子の舌を、体温を、息遣いを、存在を、健一は強く感じていた。
これが、そうなんだ。
これが。
健一は確信した。
孝子は健一のジーンズに手をのばすと、もどかしげにベルトをはずした。彼は孝子のスカートをたくし上げ、ストッキングとパンティを一気に引きおろす。彼女の細い手が健一のトランクスの中に入ってきたときには、すでに彼はこの上なく張りつめていた。
健一はトランクスをおろして孝子の手をふりほどくと、彼女の割れ目にみずからを押し込んだ。孝子はちいさく叫び、彼の腰に爪を立てる。
二度、三度と腰を突き動かすうちに、健一の首から流れる血があごを伝い、孝子の顔に落ちた。彼女は、かたく目を閉じると、舌を出してその血をなめる。健一はその舌にむしゃぶりつき、歯をたてた。
孝子の爪が彼の腰の皮膚を突き破って肉に達した瞬間、健一は体をちいさく痙攣させながら、射精した。
脱力感に包まれながら健一は孝子の上に突っ伏したが、彼女は彼を放さなかった。
「もっと、して」
ささやくと、孝子は健一の体に手足をまきつけて、強くしがみつく。
一度は萎えかけた健一だったが、次第に硬さが戻ってきた。
ゆっくりと、しかし奥まで届くように彼が腰を動かすと、孝子は悲鳴のような細い声を、食いしばった歯の奥からしぼりだした。
健一は動物のように、ただ腰を動かしつづけた。
「吉野さん。だよね？」
健一の腕の中で遠い目をしていた孝子が、不意に彼を見て言った。
「そう、吉野健一」
「健一さん…健一くん…ケンくん、か。コウくんじゃなくて」
「そして、君は鈴木さん」
「瞳じゃなくて、孝子なのよね」
「そうだね」
「むなしいわね」
孝子はため息まじりにつぶやいた。
「なにが？」
「バカみたい」
「だれが？」
「こんな自分、大嫌い」
吐き捨てるように言う孝子から、健一は目をそらした。
本当に、つまらない代償行為だったのだろうか。
一瞬のこととは言え、健一は確かに孝子の存在を感じた。瞳ではなく、孝子という存在を、強く感じたのだ。彼はその気持ちを説明しようとしたが、うまく言葉にできなかった。
「理屈じゃ、ないんだよな」
健一が言うと、孝子はちいさく自嘲ぎみに笑った。
「やっぱり、バカみたいだね、私も、あなたも」
「バカなのかな？」
その健一の言葉には答えず、彼女は健一の腕の中でもぞもぞと動くと、座席に放り出してあった拳銃を手にした。
「ねえ。これ、どう使うの？」
「脇にある安全装置をはずして、引き金をひく」
「ふーん、これ、本物なの？」
「正真証明の本物だよ。引き金をひけば、弾が出る」
「そうなんだ。こんな小さいものでも、簡単に人は死んじゃうんだね。なんだか不思議」
彼女は安全装置をはずすと、無造作に銃口を自分の頭に押しつけた。
「やめろ！」
健一があわてて銃をつかむのと、銃声が轟くのが同時だった。衝撃で彼の左手は弾き飛ばされ、孝子の顔には血が飛び散った。
「お願い、死なせて…」
孝子がつぶやくように言う。
銃を彼女の手から奪いながら、内心で健一は安心していた。
よかった。
彼女はまだ、生きている。
でも、この大量の血はなんだろう？ 彼女はひどいケガをしているのでは？
そう思った瞬間、健一を強烈な痛みが襲ってきた。
左手を見ると、中指の第二関節から先がなくなっており、そこから大量の血があふれだしてくる。その血を浴びて、孝子は悲鳴をあげた。
健一は痛みに愕然としながらも、手の止血点はどこだったろう、とぼんやり考えていた。上腕に止血点があるのは知っている。でも、ケガをしたのは指先だから、腕全体を止血しても仕方ない。さて、いったいどこで血を止めればいいのだろうか…。
ふと、健一はのんびり考えている自分に気づいて、笑った。
考えるのをあきらめた健一は、脱ぎ捨てていたジーンズのポケットからハンカチを取り出すと、中指の付け根にきつくまきつける。出血は弱まり、孝子に降り注ぐ血はわずかになった。
「ごめんなさい、私、あなた、ケガして、ごめんなさい、死にたくて」
孝子は言葉を支離滅裂に並べると、健一の左手をつかみ、ハンカチをしばる。
健一は痛みに耐えながら左手を孝子にあずけ、右手で彼女の体を抱いた。
「大丈夫。たかが指一本」
「でも…」
「君は死ななかった。僕も死ななかった。それでいい」
不意に孝子は泣き出した。血で汚れた顔に、涙の流れた跡が縞模様を作る。
「よくないよ。ぜんぜん、よくない。もう誰も傷つけたくないから、消えようとしたのに、私、死ねないで、あなたまで傷つけた」
「孝子さん、僕は傷ついてなんかいないよ」
「嘘。だって、指が。それに、こんなに血が出て」
孝子の手に包まれている指が、健一にはあたたかく感じられた。
血と涙にまみれた孝子の頬に、彼はキスをした。
「平気だよ」
「健一くん、ごめんね」
「君は悪くない。だから謝らないでよ」
「ごめんね」
「だから、謝る必要なんてないんだってば」
孝子は鼻をすすると、健一の胸に顔をうずめ、目を閉じた。
車内を探すと、座席の下から銃弾に吹き飛ばされた健一の指が見つかった。
体から離れた指は、冷たく、指紋がざらざらとしていて、まるでゴムのおもちゃのようだった。健一にとってはあまり気持ちのいいものではなかったが、孝子はその指を大事そうに自分のハンカチで包むと、バッグにしまった。
「どうするつもり？」
健一がたずねると、孝子は小声で、わからない、と答えた。
彼は黙ってしばらく指の痛みに耐えていたが、吐きそうなほど痛く、頭がおかしくなってしまいそうだった。
健一は歯を食いしばり、車の中を見まわす。
血で汚れた座席。
血で汚れた孝子。
血で汚れた自分。
血を流し、痛みに耐えている自分。
それが、すべてなんだ…。
健一は気持ちを切り替えて、口を開いた。
「ねえ」
「何？」
「よかったら、コウくんって人のこと、教えてくれる？」
「どうして？」
「なんとなく」
孝子はちいさくため息をつくと、早口に言った。
「最低の男。気がきかなくて、ブサイクで、まだ二十代なのにハゲだったし」
「でも好きだった？」
「うん、好きだったよ。なぜかわからないけど、一緒にいて、すごく落ちつけたの。でも、最低の男。ケンカしたことを謝りたかったのに、謝る前に死んじゃうんだもん。もっともっと、いろんな話をしたかったのに。いろんなことをしてあげたかったのに。たくさんの安心を与えてほしかったのに……なのに、ビルから飛び降りちゃうなんて、ずるいよ。私を置いてっちゃうなんて、ひどすぎるよ」
言葉の最後のほうは、ふるえていた。
孝子の頬を、涙が伝い落ちる。
「ケンカしたことが理由だったの？」
健一の問いに、孝子は深くうなずいた。
「私が、コウくんを殺したようなものよね。私、最低よ」
「自分のせいにするのは、簡単だけど、安易だよ」
「でも、私のせいなんだもん」
「僕も死のうと思ったけど、誰かのせいで死にたい、という感じじゃなかったな。なんとなく、死にたいんだ。しいて言えば、自分のせいで死にたかった。君は？ さっき自分の頭を銃で吹き飛ばそうとしたとき、死んだコウくんのせいで死のうと思った？」
孝子は無言で、首を横にふった。
「たぶん、それが答えなんだよ」
言ってから、健一は痛みに耐えかねて、車の座席に吐いた。吐いても何も出なかったが、何度もこみあげてきて、胃液ばかりが口からしたたり落ちる。
「どうしたの？ 大丈夫？」
孝子が彼の背中をさすりながら、言った。
「なんか、手が痛くて」
「痛いと吐きたくなるものなの？」
「わかんないけど、今はそうだった」
健一は口をぬぐいながら、体を起こした。その健一の腰を抱き、頭を彼の胸にもたれかけ、孝子は静かに言った。
「ねえ、ケンくん。今度は、瞳ちゃんの話を聞かせて。どんな女の子なの？」
健一は、記憶をたどった。瞳と別れたのは二日前だったが、今はそれがひどく昔のことのように思える。
「そうだな…目が君に似てる。よく笑って、泣いて、怒って、なんだかんだと言いながら、いつも僕の近くに来て、あったかい気持ちをわけてくれていた」
「好きだったのね」
「僕は、ね。でも、付き合おうって言ったら、友達のままがいいって言われた。だから、ずっと瞳を女として見ないようにしてたんだよ。でも、そうやって僕が我慢してるうちに、タイミングをはずしちゃったんだろうな。気がついたら、彼女は僕からの電話を着信拒否にしてた」
「ひどい女」
孝子はつぶやくように言い、そっと健一を抱きしめる。
彼はその抱擁で心がふるえるのを感じながら、続けた。
「滑稽だよね。大切に思うあまり、相手のことを考えて考えて、けっきょく相手のことなんかぜんぜんわからなくて、ただ勘違いをして、相手を傷つけて、自分も傷つけて、最後には何もかもうんざりするんだ。僕は頭が悪すぎる」
「違う、優しいのよ」
「優しくなんかない。臆病なだけさ」
孝子は健一を抱いたまま、ちいさくうなずいた。
「そうかもしれない。私も臆病。たぶん、コウくんも、瞳ちゃんも、臆病だったんだろうな」
「みんな、どうしてこんなに臆病で、さみしいのかな」
「さあ、なんでだろうね。わかんないね」
「うん、わかんないよ」
「…それで、銃はどうやって手に入れたの？」
耳元でささやく孝子の声が、健一には心地よく感じられた。彼は孝子の手を握ると、言った。
「君の車にぶつかった、あの近くの雑木林で、拾ったんだ。そこで、人を撃ち殺しちゃった。だから、もう、僕は戻れない」
「戻る必要なんて、ないじゃない。前を見ようよ。私も一緒に行くから」
「ありがとう」
健一が孝子の首筋に顔をうずめると、血の強烈なにおいに混ざって、かすかな甘いにおいが感じられた。その赤い首筋に、健一は唇を押し当てる。血の味とともに、舌先に彼女のなめらかな肌の感触が伝わってきた。
健一は、強く孝子を抱きしめる。
「孝子…」
「なに？」
彼女に頬ずりをする。
「孝子…」
「なによ」
キスをする。
「孝子…」
「変な人」
そう言って孝子が笑った瞬間、車窓に人影がうつり、車内をのぞきこんだ。
人影は、自転車にまたがった制服警官だった。警官は血まみれになって抱き合う健一と孝子の姿を見て、警戒した表情を浮かべながら、腰の拳銃を抜いた。
「あんたたち、ここで何をしてる？」
窓の向こうから聞こえてくる警官の声は、くぐもって聞きとりにくかった。
健一は無言のまま、うしろ手にシートの上を探る。銃の冷たい感触が指先に触れると、それを拾い上げて握りしめた。
「おい、あんたたちの体についてる赤いの、それは血だろう？ いったい何をやったんだ？ ゆっくり手を上げて、出てきなさい」
健一に迷いはなかった。
彼は孝子を横に突き飛ばすと、銃を窓の向こうの警官に向け、引き金をひいた。
健一の銃と同時に、警官の銃も火を吹く。
窓ガラスが粉々にくだけ散り、警官は自転車にまたがったまま転倒した。健一は窓から身を乗り出して、倒れた警官に銃を向けたが、警官は顔から大量の血を流したまま、ぴくりともしない。
「孝子、行こう。ここはもう―」
健一は振り向いて、孝子の肩に手をおいたが、彼女はあいまいな表情で彼を見るばかりだった。
「どうしたんだ、孝子」
孝子は悲しそうな顔をして、自分の腹を見る。
血が、吹き出していた。
「撃たれちゃった…私……」
弱々しくつぶやく孝子の頭を、健一はしっかりと抱きしめた。
「そんな、孝子、だめだよ」
孝子は何か言おうと口をひらいたが、苦しげな息づかいばかりがもれてくる。
「ごめん、こんなことになるなんて」
孝子は首を横にふり、涙のにじむ目で健一を見た。
「痛いか？」
健一の問いかけに、彼女はちいさくうなずいた。
「そうか…ごめんな、孝子。今、楽にしてあげるよ」
彼が銃口を孝子の頭に向けると、彼女はしぼりだすような声で叫んだ。
「だめ！」
驚いて身をかたくした健一に、孝子はあえぎながらつづけた。
「……私は、生きるの…もう逃げない……痛くても、最後まで」
「でも―」
言いつのろうとした健一の手を、孝子は弱い力で握る。
「最後まで、見守って、いて。お願い」
健一は銃を投げ捨て、孝子の手を両手で包み込んだ。
言葉が、なにも出てこない。
ただ、涙だけがあふれ出してくる。
彼女の手のぬくもりを感じながら、健一は泣きつづけた。
孝子は、静かに息をひきとった。
ゆっくりと、長く息を吐き出した後で、二度と息を吸うことはなかった。健一は冷たくなっていく彼女の手を握ったまま、指を失った左手で車のシートを殴りつけていた。
痛い。
狂いそうなほど、痛い。
「畜生っ！」
健一は怒鳴ると、銃を拾い上げて自分のこめかみにつきつけた。
引き金にかけた指が、ふるえている。
この指をひけば、すべてを終わりにできる。
なにもかも。
彼は唇を強くかんだ。唇が裂けて、血が出る。それでもなお、歯を食いしばった。
いいのか？
それで本当に、いいのか？
涙が止まらない。苦しい。痛い。
もう、イヤなんだ。
なにもかも、イヤなんだ。
「畜生！ 畜生！ 畜生！ 畜生！」
健一は絶叫しながら、引き金をひいた。
銃口を上に向けて。
すべての弾を撃ち尽くすまで、何度も引き金をひきつづける。
耳元で響いた轟音が頭の中でこだまして、彼はめまいを感じた。
しかし、彼は生きていて、銃弾はなくなった。
もう、安易な道はどこにもない。
ぐったりとシートにもたれかかり、健一は車の天井を見上げた。そこには銃弾であいたいくつもの小さな穴があり、空が見えた。
小さな、青い空。
健一は、見ていた。
小さな青空を、そこを通りすぎていく白い雲を、ふりそそぐ光を、彼は見ていた。澄んだ色の世界を。そして、その中にいる、血まみれの自分を。
やがて彼は運転席に移動すると、車を発進させた。
アクセルを床まで踏み込む。
割れた窓から風が吹き込んできて、座席に横たわる孝子の髪が風に吹かれて踊る。しかし、彼女は死んでいた。
健一は、生きている。
残ったものは、彼女が与えてくれた、傷。弾切れの銃が一丁。そして、彼女の車。
血まみれで、傷だらけだけど、青い空が見える車。
車は、走りつづける。
健一を乗せて、走りつづける。
完
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