アナスタシア戦記 第4話 『紅き髪、蒼き瞳』 arata  ああ。  私は生きております。  まだ生きております。  ありがとうございます。  彼女をお許しください。  彼女は己が何ものなのか忘れているのです。  彼女は己がどこから来たのか忘れているのです。  彼女は己がどこへ赴こうとしているのか忘れているのです。  闇の中で男は覚醒した。  覚醒とともに苦痛が男を襲いだした。  それは己が生きている証しでもある。  何時間、いや何日間、失神していたのだろうか。  意識を喪失することは囚人が拷問から逃れる唯一の手段であった。  男は立ち上がろうとして足を滑らせた。  背中を床に打ちつけ激痛が男をつらぬく。  鞭打たれて傷ついた背が裂けて血が滲んだ。  男は激しく呼吸を繰り返した。  仰向けのまま虚空を見つめた。  隅のかすかな灯りが部屋の内部を照らしていた。  まだ乾ききらぬ血が口の端にこびりつき血の味がした。  徐々に記憶が蘇ってきた。  破壊時の衝撃で破損していたハッチが無理やり開かれた。三人の兵士が打撲で身動きのできないイリアに銃を向け、無理やり彼を引きずり出した。  痩せた酷薄そうな眼の男が兵士たちの間からイリアの前に進み出てきた。階級章から大佐であることが見てとれる。直に顔をあわすのは初めてだったがユロフスキであることをイリアは悟った。 「反革命軍のアレクセエフ少尉、カザフの狼、だな」口の端を歪ませてユロフスキは詰問した。追い詰めた獲物を押さえこんだ狐の表情だ。 「反革命軍? いいや。違う」 イリアはユロフスキを睨み返すと胸をそらした。「私は『皇帝軍』のアレクセエフ少尉だ」  ユロフスキは鼻をならした。部下にイリアを殴らせる。地面に倒れたイリアの頭を軍靴で踏みつけると、体を屈めてユロフスキは歪んだ笑いを浮かべた。 「おまえには借りがある。カザフの狼。おまえに倒された『鉄槌』は百機以上はあるからな」  ユロフスキは喜悦の表情を浮かべながら拷問メニューを告げた。この男は生まれながらのサディストらしい。人が苦しみもがくのを見るのが快感なのだ。 「おまえは慈悲を請い反革命軍の情報を自ら話しだす。反革命軍の裏切り者として名を残すことになるだろうよ」  しかし、ユロフスキはすぐに己の間違いに気づかなければならなかった。イリアは拷問に耐え、そして黙秘を続けたのである。    白軍の指揮系統は混乱していた。それは仕方の無いことであった。モスクワに樹立されたコミュニスト政府は国家の主要交通通信網を押さえ白軍を追撃している。分断された白軍の各部隊はロシア辺境地域へと逃走し、勝手なゲリラ戦を赤軍相手に繰りひろげていた。本来ならば、先のロシア皇帝、ニコライ二世を長にいただくはずであった。しかし、共産党によりニコライ二世は家族ともどもエカチェリンブルグのイパチェフ館へ軟禁され、そして処刑された『らしい』。つまり、この最重要情報さえ把握できていないのだ。  偽情報がとびかっていた。  曰く、ニコライ二世と家族は処刑を逃れて極秘裏にモスクワへ護送された。  曰く、レーニンとドイツの秘密協定により皇后アレクサンドラの命は救われた。  曰く、赤軍に加担し、内通している皇族がいる。  共産党指導者レーニンは緻密な謀略家である。偽情報を流すことにより、白軍の力を分散させ弱体化を図ることを意図しているのであろう。と、ロシア東方の白軍を掌握しているタルコフスキ大佐は考えていた。そして、今、ウラジヴォストクの密偵からの暗号電文に眼をおとしていた。タルコフスキはたくわえた白髭をさかんに右手で撫ぜていた。それは彼が思案しているときの癖なのだ。暖炉で火がはぜた。ツンドラを吹き渡ってきた風が窓硝子をうつ。 「どう思う。イリイチ」タルコフスキは彼のまえに立つ年若い部下にきいた。 「ウラジヴォストクの浜辺で赤軍に撃破された蒸気人形の標識はアレクセエフ少尉のものと一致します。少尉が赤軍のユロフスキ部隊に捕虜とされたことは間違いないでしょう」 「うむ」タルコフスキはうなづいた。「我々がイパチェフ館からアレクセイ皇太子とアナスタシア皇女を救出できたことは神の恩寵といってもよい。もちろん、白軍一の蒸気人形乗り、アレクセエフ少尉、カザフの狼の働きがあればこそだが。その後、体調を崩した皇太子はハバロフスクの地下組織にてかくまわれたことまでは分かっている。だが、問題はアナスタシア皇女殿下の消息なのだよ」 「日本大使館を経由してアナスタアシア皇女殿下の消息を日本政府に打診しましたが確認できませんでした。入国自体が確認されていないそうです」と、イリイチはメモを見ながら報告した。  日露戦争時の確執はあったが、日本は、形式的には、血統に基づく王制であり、コミュニスト勢力が拡大することを憂慮していた。密かにロシア皇帝軍に情報物資の援助を行っていることは公然の秘密である。  タルコフスキは暗号電文の最後をもう一度見た。『アナスタシア皇女殿下はウラジヴォストク赤軍支部に捕虜とされた可能性が大きい』と、密偵は報告してきていた。 「ニコライ陛下の生死がわからず、ハバロフスクの皇太子殿下のご様態がすぐれない以上、アナスタシア皇女殿下を奪取することはわが軍の最優先事項と存じます」イリイチは進言した。「我が軍に必須なのは、祖国をコミュニストの魔手から取り戻すための錦の御旗、ロマノフ王家の血なのですから」  タルコフスキは顔を顰めて部下の作戦行動案を聞いた。最近の若いものはロマノフ王家への畏敬が希薄だ。皇帝の血を戦争の道具としか見ていない。だからコミュニストに祖国を踏み荒らされるのだ。と、心の中で呟いた。もともとロシア皇帝の親衛隊に所属していたタルコフスキはニコライ二世や皇女たちとも顔見知りだった。とても世界の四分の一を支配する皇帝とは思えないような家庭的で暖かい人たちだった。あの美しくあったが狂信的な皇后は苦手だったが。ニコライ二世はタルコフスキの故郷の家族のことをよく心配してくれたものだ。優しい皇帝であった。実を結ばなかったがロシア国内の飢饉も大戦も解決しようと努力していたのだ。ラスプーチン、そして、レーニンさえ現れなければ陛下と皇女殿下の笑顔を失うことは無かった。ましてやタルコフスキはロマノフの血の秘密を垣間見たことがあったのだから。  ユロフスキはモスクワの党執行部からの指令書を受けとった。軍用蒸気機関車『勝利』とともに、指令書を携えてきたのは二十歳にも満たない男装の女だった。黒眼鏡で隠された顔。透き通るような白い肌。髪は束ねられて制帽の中に隠されていた。赤い解れ毛が制帽の下から見える。  少女はウラジヴォストク駅から闇にまぎれて赤軍支部へと到着すると、傲慢そうな態度を顕わにしてユロフスキに机の上に指令書を置いた。 「スターリン。そう、あたしは呼ばれている」  スターリン! ユロフスキは唖然として、目の前の華奢な少女を見つめた。  スターリンという通称は『鋼鉄の人』という意味である。特殊機動部隊長としてロシア辺境を転戦していたユロフスキは今まで面識がなかった。伝聞によると、最近レーニンの引き立てにより党中央執行部で頭角を現してきたという。何故、我が党はあのような反革命的要素を取り込まねばならぬのかと理論家トロツキーが嘆いたそうだ。いくつもの尋常でない噂があった。  しかも、こんな小娘だったのか!  「同士スターリン。あなたのお噂はかねがね伝え聞いていました。たった一人で反革命軍の一部隊を鉄屑に変えてしまったとか、どのような激戦からも生還する不死身の人であるとか」  眼に疑惑の色を浮かべつつもユロフスキは探りをいれた。 「あら、早耳ねえ。ユロフスキ。お仕事の方もそうあってほしいものだわ」少女は皮肉げに応えた。「あたしの最高記録は白い蒸気人形三十機を一台十秒で殲滅したことね。白い機体は赤く染まったわ。赤は綺麗ね。ロマノフの紋章を血で染めあげるのは最高よ」  少女の赤い舌をちらちらさせながら喋った。蛇のようだ。 「ウラジミルは速やかな情報収集を望んでいるわ。ユロフスキ、あんたのやり方では尋問に百年かかるわ。反革命軍の捕虜、アレクセエフ少尉の身柄は党中央執行部スターリンの預かりとする。これが決定事項よ。すぐにでもモスクワまで護送しなきゃならないわ。そして、たっぷり可愛がってあげるの。狼ちゃんを」  ユロフスキは少女は同士レーニンをファーストネームで呼び捨てにしたのが気にかかった。ユロフスキは指令書を手にとり、すばやく眼を通した。暗にユロフスキの無能さを揶揄する文面。ユロフスキは悔しさに唇をかんだ。  ユロフスキはモスクワの党中央執行部の権力構造が己の知らぬ間に変化していることを悟った。あまりにも長期間、党中央執行部から離れすぎていたのは迂闊だった。モスクワに帰り、己の目で『同士スターリン』の権力を見定める必要がある。  ユロフスキが指令書から顔を上げるとスターリンの嘲笑が目に入った。 「あら、なにか不服でもありそうじゃない。あなたがアナスタシアをロシアから逃がしてしまったせいなのよ。あたし、スターリンがウラジヴォストクまで出向かなきゃならないのはね」 (見透かされた)ユロフスキは激情をなんとか抑えこんだ。(畜生) 「あら、ユロフスキ大佐。そんな怖い眼であたしを睨んじゃ駄目よ。指令書の続きをちゃあんと読めば、あたしが今回の作戦行動で如何に重要な役目かわかるでしょうに」  少女はユロフスキの机に左手をつき、身を乗り出してユロフスキが手にした指令書を指先ではじいた。そして、黒眼鏡をはずし、後ろに束ねていた髪を解く。はらりと髪が広がった。  ユロフスキはあっと息を呑み少女の顔をみつめた。その顔貌は彼が追跡していたあの皇女に似ていた。否、そのものだった。  紅き髪と蒼き瞳。  イリアは目隠しをされて手錠をかけられたまま牢から引きずり出された。 「貴様はモスクワ党中央執行部の預かりとなった」  ユロフスキは、そう一言イリアに告げると、それ以上は何も話さなかった。己の思考に埋没しているようだった。鉄の人間と呟く声が聞こえたが、あるいは、それは新型蒸気人形の名称だったのかもしれない。  いきなり太陽の下へ引き出されたため光が全身の傷跡に刺し込むようだ。足の爪をはがされたため一歩一歩が激痛となる。歩みの遅さに苛立ったユロフスキがイリアを小突いた。イリアはうっとうめき声をあげた。ウラジヴォストクの赤軍支部の前に鉄格子のはめられた護送用蒸気自動車が停止していた。イリアは両脇をかかえられて、その鉄格子の檻に閉じ込められた。イリアには見えなかったが、もう一人、少女が建物の中から連れ出され車に押し込まれた。車に乗る直前、少女が赤軍兵士に抗ったため、赤い髪はぱっと広がった。  イリアは護送車の壁に背をもたせかけてしゃがみこんだ。呼吸を整える。今は体力を温存することが第一だ。とにかく、モスクワに着くまでは命は保証されたわけなのだ。とにかくチャンスを待つ。そう。己が皇女殿下を励ました言葉を思い出せ。 (生きて)(強く生きてください)  紅き髪、蒼き瞳。 (約束よ、イリヤ)(約束です)(私は必ずヤポンへ赴きます)(貴女を守るために (私の命があるかぎり、貴女を守ります)(スタナ、貴女を守ります)(まもります)  微かな声でイリアは誓いの言葉を繰り返した。傷から侵入した細菌のため熱があるようだ。護送車の振動とともに朦朧とした闇の底へとイリアは再びひきずりこまれていった  スタナ…。  ウラジヴォストク駅構内に痩せた青年が立って新聞を読んでいた。髪が黒く、どうやら日本人らしい。ウラジヴォストクはロシア東端の港であったため物資の流通が盛んである。ウラジヴォストク市内には貿易を営む日本人や中国人の町があり、日本人の姿はとりたてて珍しいものではなかった。ロシア中央にコミュニスト政府が樹立され、ウラジヴォストクに赤軍支部があるとはいえ、中央から見れば東の辺境である。革命の波がこの地を本格的に洗うのは日本軍のシベリア進中後のことであった。  引込み線に待機していた軍用蒸気機関車が構内に入ってきた。ウラジヴォストク駅の前で護送車から引きずり出された赤い髪の少女とイリアがその蒸気機関車に連行される。それを確認すると日本人青年は道向かいのビルに駈け込んだ。彼は階段をかけあがり三階廊下の突き当りまでいくと、『日露貿易』と漢字とロシア語で表記された看板のかかった扉があった。鍵を開けて中へはいり、缶詰の箱の積み重なった棚の裏に隠した無線通信機を取り出した。手馴れた様子で暗号電文を打つ。 『こちら佐倉。荷物は発送した』  距離が離れているためかノイズが多い。 『中身は狼と山猫の毛皮だ』  荷物は護送蒸気機関車。狼はアレクセエフ少尉。山猫はアナスタシア皇女殿下。青年は頭の中で変換した。次の中継地点を経て、その最終端には白軍のタルコフスキ大佐がツンドラの大地で控えているはずだった。  最初に意識にのぼってきたのは蒸気機関の間欠的な汽笛音。そして背中に響く車両の振動だった。 (シベリア鉄道で護送されているのか……) イリアが軽く頭をふり、眼をあけた。  アナスタシアが、いた。  紅い髪がイリアの頬に触れ、蒼き瞳が黒い瞳を覗き込んだ。  彼の唇に柔らかい彼女のそれが重なる。甘い薔薇の香りがイリアをつつんだ。少女のたおやかな胸がイリアの体におしつけられる。  しかし、次の瞬間、イリアはもがき、彼女の抱擁から逃れた。両手に手錠がはまったままなので身をもがくしかなかった。 「イリア、どうしたのです」少女はとまどいの表情を隠せなかった。 「あなたは、何者か」イリアは醒めた目で少女を凝視した。 「あたしは、アナスタシア」少女はイリアに顔を近づけてささやいた。 「ちがう」イリアは首をふった。「あなたは、アナスタシア皇女殿下、ではない」  少女は鼻をならした。そして、身を起こし大きく腕を広げた。 「イリア。あたしを見なさい。良く見るのです。あたしの顔。あたしの髪。あたしの声。あたしの体。あたしはアナスタシア、でしょう?」 「わたしはアナスタシア皇女殿下とともに六ヶ月間過ごしたのです。確かにあなたは皇女殿下にそっくりと言っていいでしょう。しかし」イリアはため息をついた。「あなたには皇女殿下にあった気品というものが感じられない。あるいはロマノフ王家の者が持つオーラの欠如といってもよいでしょう。第一、人の寝込みを襲うような真似は殿下は決してなさいません」  少女はロマノフという単語にぴくりと顔を引きつらせ激烈な反応を見せた。 「ふん。カザフの狼はすみにおけない男ね。接吻ひとつで女を区別できるなんて大したものじゃない」瞳から鈍い憎悪の光を放ち、猫被りをかなぐりすてた。「確かに、あたしはあんたの知っているアナスタシアじゃないわ。あたしはアナスタシアの影。いいえ。アナスタシアがあたしの影となるべきなのよ」  少女の最後の言葉は呟きになっていた。不意に彼女は両手で顔を覆い泣き出す。感情のコントロールができない激烈な性格のようだ。  イリアは足で体を壁に押しやり上半身を起こしながら言った。 「仔細があるようですね」  イリアは車室内をすばやく確認した。彼は車両内に設置された鉄の牢獄につながれていた。この護送車両には小さな窓があいていて日光が斜めに差し込んでいる。光の角度から蒸気機関車がシベリア鉄道を西へと驀進していることがわかった。  アナスタシアの顔を持つ少女は涙を右手ではらい、イリアの前に身をかがめた。 「少尉。あなたは、アナスタシアを、愛しているの?」  イリアは少女から顔をそむけた。 「わたしはロマノフ王家に忠誠を誓っているだけです」  いきなり少女の白い右手がイリアの頬を張り倒した。彼の口の端が切れ、鮮血がほとばしる。 「ロマノフ、ロマノフ、ロマノフ。その汚らわしい名前をあんたがもう一度口にしたら、ぶち殺すわよ」少女は足を踏み鳴らした。 「世継ぎがなかなか生まれなかったドイツ人妃の身代わりに、秘密裏に子を孕まされた可哀相なママ。生まれたあたしが女だったという理由でママを見殺しにしたロマノフ。あたしの全てを奪ったロマノフ。あたしの体をラスプーチンに与えてもてあそんだロマノフ。だから」少女は急にイリアにさびしそうな眼で笑いかけた。「復讐なの。あたしがおとなしい人形じゃないことを『あの女』に示してやるわ」  少女は無抵抗なイリヤを押し倒し、唇を無理矢理奪う。 「アナスタシアを愛することは許さない。絶対に」  少女が指を食い込ませたイリヤの傷跡から再び血が吹き出した。 「愚かな」苦痛に耐えながらイリアは呟いた。  紅い髪の背後の虚空をみつめるイリヤの瞳には憐憫の色が浮かんでいた。  凍りついた大地を切り裂くように谷間から蒸気機関車が驀進してきた。赤い内燃機関の光と白煙が急速に接近しつつある。  タルコフスキは双眼鏡を眼からはなして合図を送った。そして、貨物蒸気機関を操縦する兵士の応答を確認して蒸気人形のハッチを閉じた。闇の中で蒸気人形からわずかに漏れ出る光に照らされて白い機体に飾られたロマノフの紋章が淡く浮かび上がった。スタンバイのため蒸気圧をたかめると、ぱちぱちという音が爆ぜた。  タルコフスキは頭の中で反芻した。軍用蒸気機関車は十両。前からニ両は蒸気機関とその燃料、中三両は兵士と移送中の捕虜、後ろ五両は移送物資が積まれている。おそらくは捕虜となったアナスタシア皇女とアレクセエフ少尉は五両目に監禁されているはずだ。  軍用蒸気機関車『勝利』が目標となるシベリア鉄道との合流点を通過した。  少女の嬌声が列車のなかに響きわたりユロフスキは思わず顔をしかめた。戦闘をパーティやままごとのように思っているのか。生死がかかっていることに思い至らない馬鹿なのか。  少女は蒸気機関車上部に突き出した展望窓から身を乗りだしていた。風で広がろうとする赤い髪を押さえて闇の彼方を確認する。 「ウラジミルの言ったとおりね。雑魚が餌に食いついてきたわ」少女は嬉しそうに叫んだ。  近隣の鉱山へつながる鉄道支線側に線路がスイッチされ、ちらちら光る赤い炎の列が本線側に入り込んできていた。その光は加速し彼我の差を縮めてくる。鉱山の採掘物を移送する貨物蒸気機関の光であった。その車上に固定された白の蒸気人形。ロマノフの紋章。ユロフスキがスターリンの嬌声を黙殺して部下に指示を下した。 「白軍『雷帝』を積載した蒸気機関車が後方から接近中。迎撃準備」  列車の装甲が解除され車両下部に収納されていく。姿を車上に現したのは赤の蒸気人形『鉄槌』。『鉄槌』の蒸気圧はすでにスタンバイになっていた。ユロフスキは唇を舌でなめた。アナスタシア皇女の身体を傷つけることを恐れ、鉄道自体の破壊活動は行わないというのが白軍の読みだ。残された手段は列車そのものの強奪である。チェッカーの情報操作が反革命分子を罠に誘い込んだのだ。  イリイチは舌をならした。前方の軍用蒸気機関車の覆いが下部に収納され、車上に『鉄槌』が出現したからだ。タルコフスキ大佐の指示が無線からとぶ。 「蒸気罐最大出力。敵の砲撃はかまうな。追いつけ!」  加速しながら、じりじりと接近する。  あわてて先頭にいた『鉄槌』が大口径の機関砲を構えた。  炎と衝撃が『雷帝』を襲った。   「あらあら、お馬鹿さんねえ」少女は鼻で笑った。不安定な姿勢から機関砲を撃った『鉄槌』が反動で転落したのだ。「無駄なことはせずにあたしに任せておけばいいのよ」 「撃つな」ユロフスキが顔を顰めながら伝声管に怒鳴った。  そのとき後方からの衝撃がずしんと突きぬけた。 「同士ユロフスキ。敵機がこちらに移ってきます」伝声管から報告があった。  近接戦闘となった。    跳び乗ってきた『雷帝』に先頭の『鉄槌』が棒状の武器で襲いかかる。軍用蒸気機関ではあっても車台の上は決して広くはない。蒸気人形一機でふさがれてしまう。これは集団戦が困難であることを意味していた。戦闘は一対一。実力が高い蒸気人形乗りがいる方が勝つ。  『雷帝』は『鉄槌』が振るった棒を両手で受けた。棒の勢いを殺さずに『雷帝』は転身し『鉄槌』を背負った。そのまま、梃子の原理で『鉄槌』は車台から外へ投げ飛ばされる。  日本の柔道の技だ。背負い投げである。  かつて、ニコライ二世は日本の講道館から柔道家を招いて親衛隊を指導させた。その技がタルコフスキによって蒸気人形の技に編纂されていたのだ。  『雷帝』が、次に並ぶ『鉄槌』に向き直った。  その『鉄槌』はじりっと後ずさった。  白軍の兵士が列車から降りてきたユロフスキと赤軍兵士を銃を向けて囲む。ユロフスキは武装解除されると、手をあげて頭の後ろに組まされた。『勝利』はツンドラの大地に延々と続く線路の上で停止していた。 「たいしたものだな。タルコフスキ」ユロフスキは口の端を引きつらせた。「潔く降伏したんだ。それなりの待遇をしてもらえるのだろうね」 「ああ、皇帝軍から赤軍へ寝返った風見鶏君に相応しい最期を用意してあげるよ」タルコフスキは顎髭を撫でながら醒めた目で答えた。そして、続いて降りてきた少女の前で敬礼する。 「アナスタシア皇女殿下、よくぞ。ご無事で」 「ありがとう」赤い髪と蒼い瞳を持つ少女は頷いた。「あなたたちの勇敢な働き、けっして忘れることはないでしょう」少女は微笑みながら、ゆっくりと周囲の兵士の数と配置を確認した。 「アレクセエフ少尉を発見しました」列車の中からイリイチがタルコフスキに叫んだ。  列車の鉄格子の中から兵士に抱えられたイリアが運び出された。  イリイチがイリアの顔を覗きこんだ。衰弱が激しそうだ。 「イリイチ……」イリアが苦しそうに薄目をあけた。そして、微かな声で何かを囁いた。 「なんだ。イリア。何を言いたいのだ」イリイチがイリアの体の上にかがみ、耳を近づけた。 「その女、偽者、だ」  イリイチの頭部が炸裂した。イリアは血と脳漿を浴びた。少女がスカートの襞に隠していた拳銃で至近距離からイリイチを撃ったのだ。少女は白軍兵の自動小銃を奪い、機械のような正確さで周囲の白軍兵を仕留めていく。油断しきっていた白軍兵はひとたまりもなかった。タルコフスキは右脚を打たれて転倒した。 「あんたは殺さず捕虜にしろってウラジミルが言うのよ。あん。つまんない」  少女がタルコフスキの顔を見下ろして言った。 「あなたは、あなたさまは……」タルコフスキは激痛に耐えながら少女の顔を見上げた。「思い出しました。あなたこそ、アナスタシア。よみがえりしもの……」  少女は狂笑してタルコフスキの全身に弾丸をぶち込んだ。レーニンの指令はこの少女の行動を束縛するものではなかったらしい。  ユロフスキは冷たい地面に身を投げ出して這いつくばりながら、この血の饗宴を見ていた。鉄の人。あの渾名は真実だったのか。この狂った小娘が権力を掌握したとき、俺は生き延びれるだろうか。ユロフスキの体を戦慄が通り抜けた。  モスクワ党中央執行本部。レーニンの執務室。  レーニンは机の上に両手を組み合わせて肘をのせて黙想していた。秀でた額が知性を感じさせる。その前に出頭した赤い髪と蒼い瞳を持つ少女が腰に手をあてて立っていた。と、レーニンが目を開いた。 「タルコフスキーは殺さず捕虜にしろと命じたはずだ。スターリン」 「あら。ちょっと手元が狂っただけよ」少女は赤い舌を覗かせた。「白軍の情報なんていらないわ。どうせ、あたしが殲滅してしまうのだもの」 「タルコフスキーの情報はヤポンの動静を探るために必要だったのだ。ヤポンは我がソビエトへの内政干渉のためシベリアへ派遣軍を送り込むはずだからな」レーニンは目を細めた。「お前は直情径行が過ぎる。それは将来、お前の命取りになるだろう」 「命なんかいらないわ」少女は鼻をならした。「死ねるものならね」  レーニンは首をふった。『組織』と『あの女』にとんでもないお荷物を押しつけられたものだ。いや、化け物というべきか。だが、レーニンはスターリンという存在に対する哀しみを心の隅で感じていた。 「同士レーニン。アレクセエフ少尉の『尋問』はあたしが直接やるわ。いいでしょ。タルコフスキ部隊を殲滅したご褒美よ」少女は媚を売るようにレーニンに頼んだ。  レーニンは渋々頷いた。もっともレーニンが禁じてもスターリンが素直に命令に従わないことを彼は知っていた。スターリンは己が執着したものは決して手放そうとしないのである。  薄暗い室の中に男女の姿が灯りの光で浮かび上がった。  周囲にはフラスコやガラス管に混じり、精密機械や電線が散らばっている。  男は傷だらけの裸体を台座の上に晒し鎖で拘束されている。黒い髪が広がり台座に染み込んだ血の赤と対照的な模様をなしていた。  男は苦しそうに呼吸を繰り返した。  赤い髪と蒼い瞳を持つ少女が男の顔を覗きこんでいた。  男は息も絶え絶えに少女の名前を呼びかけようとした。  しかし、力尽きて唇が微かに動いただけであった。  少女が眼が闇の中で光った。 「アナスタシア。いまいましい名。必ずあたしの手で殺してやる」  少女は呪文のように言葉を繰り返した。 「アナスタシアのものはあたしのもの。アナスタシアはあたしの影」  少女はイリヤの顔を両手で包み込んだ。血が少女の両手を赤く染める。 「だから、あなたはあたしのもの。アナスタシアには絶対渡さない」  少女はイリヤの傷だらけの裸体をかき抱いた。 「あたしのすべてを見せてあげる。あなたもあたしと同じになるの。そして、もうアナスタシアを愛することも、思い出すこともできなくなるようにしてあげるわ」  闇の中に鳴咽とも喜悦ともつかない少女の声が響いた。 「イリア、あたしの人形」               第四話  了