エピローグ
　坂崎真理奈は、サイバーシティの中では感じることのなかったむずがゆさを感じ、頬を軽く掻いた。当たり前の感覚だが、体感時間で一八〇年という時間をパラ・トキオの中で過ごした彼女にとっては、いまだに新鮮なものだった。六年の間に成長した自分自身の肉体にも、まだ漠然とした違和感を覚えている。
　と、軽やかな着信音とともに、目の前のモニタ画面に電子メールが届いている旨が表示された。彼女は送信人の名前…ＭＭＭＳを見て微笑み、すぐにそのメールを開封した。
「ＭＭＭＳです。今日は久しぶりに宮上のイメージが強いので、ちょっと女性っぽいメールになってしまうかもしれません。もう六年もこの状態ですけど、なかなか慣れないものですね。真理奈さんは、もう現実世界には慣れましたか？（笑）
　私は、ここ数日というもの、義行さんの症状の解決になればと、あれこれ調査をしていました。いくつか興味深い話を耳にしましたので、お知らせしておきます。
　これは、アイルランドの科学者アーサー・オドネル博士の研究成果です。オドネル博士は脳神経学の権威で、いわゆる『脳の未使用領域』についての新たな仮説を発表しました。私には難しい学術用語は理解できませんでしたが、簡単に言うと、それは『未使用』なのではない、ということのようです。サルを使った実験では、この部位への変更を施したときには記憶の混乱を始めとしたさまざまな障害が見られたそうです。
　人間の脳は、まだまだ未知の部分が多いのでしょう。六年前、義行さんは父である健太郎さんの知識を脳に入れ、記憶喪失になりました。そして今回も、六年間をパラ・トキオで過ごした彼自身の分身の知識を脳に入れ、廃人のようになってしまいましたね。そういう状態を見てきた私にとって、未使用領域と呼ばれていた部位は未使用ではなかった、というオドネル博士の説は、とても説得力があります。私がもし牧村亮の肉体に戻っていたら、どんなことになっていたのでしょうか。何しろ、牧村、松田、宮上、佐藤の四人分ですからね（苦笑）。考えると少し恐ろしい気がします。
　ですが、これは私見なのですが、かつて義行さんが記憶喪失から立ち直ったように、今回も彼は立ち直るのではないか、と感じています。自然治癒力と言うのでしょうか、そういったものが働くのではないかな、と。
　私はこれからオドネル博士と接触して、もう少し情報を集めてみたいと思います。何かの突破口になればいいのですが。ともあれ、どのような形にせよ、義行さんが回復することを心から願っています。
追記：加納さんは、まだあなたのところに出入りしていると聞きました。よっぽどあなたのことが気に入ったようですね（笑）。玉座の間で見たニセモノよりも本物のほうが数百倍きれいだ、なんて言ってましたよ。
　では、また。(^-^)/　　ＢＹ　ＭＭＭＳ」
　笑顔でメールを読み終えた真理奈は、ふと表情から笑みを消して、傍らの椅子に腰掛けた義行を見た。義行は口を半開きにしたまま、何もない壁を見つめている。パラ・トキオから脱出して以来、ずっとこの状態だった。手を引けば歩くし、口に食べ物を入れてやれば飲み込むのである。が、自分から能動的に何かをするということは、まったくなかった。
　真理奈は義行を抱きしめ、彼の頬に自分の頬を押し当てた。ぬくもりがある。彼は生きている……。そう思うと切なくなってきて、涙があふれそうになる。
　ピッという短い警告音とともに、システムが来訪者の存在を告げた。監視カメラに映っているのは、加納の姿である。真理奈はキーを叩いてロックを解除し、声を出した。
「どうぞ！」
「おじゃましまーす」
　ドアを抜けて、加納が姿を現した。手には紙の包みを持っている。
「珍しいものを見つけたから、買ってきた。何だと思う？」
「何？」
　真理奈はいたずらっぽく微笑んで、加納が手にした包みを見ながら言った。
「合成じゃない、本物のアンを使ったタイ焼きだよ」
　加納は得意げに笑いながら、真理奈に包みを渡す。真理奈は思わず吹き出してしまった。前に来た時に持ってきたのは「合成じゃない本物の鮭を使ったおにぎり」だったし、その前は「本物のタコを使ったタコ焼き」だったのである。
「さーて、眠れる王子様のご機嫌はいかがかな？」
　加納は椅子に座ったまま動かない義行に歩み寄ると、その顔をのぞき込んだ。と、義行の目がちら、と動いたように見えた。
「ん？」
　加納は義行の目を見た。また、義行の目がちらと動いた。間違いない。何かを見ているのだ。加納は慎重に義行の視線を追った。
　視線の先には、コンピュータのモニタ画面があった。そしてそこには、真理奈宛ての電子メールが表示されている。
「真理奈！　義行がメールを読んでるぞ！」
　加納の声に、真理奈は手にしていたタイ焼きの包みを投げ捨てるようにして、義行のところにやってきた。そして義行の視線を追い、彼がメールの中のある一点を見ていることに気付いたのである。
　真理奈は震える手で義行の手をとり、義行の指で慎重にキーボードを押していった。
「あー」
　画面上でその文字列が完成した瞬間、義行の口から言葉にならない声が漏れる。
「義行、わかるのね？　これが…」
　真理奈の声が涙で詰まった。
「あー」
　義行は体を揺すりながら、声を張り上げる。
「やった、治りはじめてるんだ！」
　加納が歓喜の声を上げながら、真理奈の背中を叩いた。真理奈は言葉もなく、ただ義行を抱きしめる。
　モニタ画面に表示されていたのは、短い魔法の呪文だった。

　(^-^)

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（滝澤真実）


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『トライ・アングル』・完