７
　カノーがもんどりうって転がったとき、厚いマントの下で金属質の音がした。
　剣？　なぜ、こんなものが。
　カノーが驚くよりも早く、衛兵はめりこんだ斧を軽々と引き抜くと、上段にふりかぶった。
　カノーは右手で剣を引き抜いた。神官ににあわぬぶかっこうな剣には、黒ずんだチョウが彫り込まれている。カノーはちらとそれを見、絶望的な顔で目の前の敵をながめた。頭のなかにひとつの言葉がうかぶ。
「ＲＳリサーチ社……」
　チョウの模様の社章。
　社章だって？
　一瞬とまどったカノーの頭がなにかに占領されたように真っ白になる。
　……サトウ　レベル２８　職業プリースト。データローディング中……
「なんなんだ。これは」
　カノーは自分の左手が宙に印をむすぶのをぼう然とながめていた。
　と、描かれた文様が光り輝くコードに変換され、周囲に光の壁をかたち作った。
　すかさず斧が光の壁にめりこみ、火花が飛び散る。
　ここはいったいどこで、自分はどうなっているんだ。ふたたび剣の紋章を見つめる。何かが心のすみに引っかかり、そして失われていく。
　カノーはふたたび目の裏に白い光を感じた。
「またか！　こんどはなんだ」
　頭のなかが裏返しになるような感覚とともに、右手に握りしめた剣がうきあがるほど軽く感じはじめる。
　……ミヤカミ　レベル２２　職業戦士。データローディング中……
「ちょっとまて！」
　カノーの体がはじかれるようにシールドから飛び出した。斧を引き抜いた衛兵は舌なめずりをして床をはいずる。光にふれた体のすみが不定型にくずれはじめ、醜い足の先がモザイク様に分解されて空に散る。
　カノーは巨体をヒョウのようになめらかに動かすと、剣を衛兵の肩にたたきつけた。重さで鎧がはじけ、黒い異形の体が浮き彫りになる。
「うげえ！」
　吐き戻しながらも、右手に左手を添える。まるで別々の人間が動かしているように少しずつずれながら全身が協調していく。
「まただ。また始まった！」
　……マキムラ　レベル４５　職業サムライ。データローディング中……
「やめろ」
　叫びながら体をねじろうとしたが、足はすでに自分のものではなく、左手が赤いすじを宙にとどめながら動いていく。
　カノーのなかに、プレイヤー用のデータがあふれた。
　……サムライ。
　　　戦士の力と魔法使いの攻撃呪文をあわせもつ。成長はやや遅いがなっておいて後悔はないキャラクター。
「うぇ！」
　カノーは次の瞬間、左手が炎を噴き出すのを感じた。つづいて焼けつくような痛みが走る。それなのに剣は衛兵の体をへそのあたりまで斬りおろしている。
　カノーの口から、若い青年の声がほとばしり出た。
「のろわれし者よ。光の彼方に消え去れ！」
　プリーストの呪文が体を両断されてのたうつ衛兵を明るく包み込む。ダンジョンの小部屋に幾つもの光がさし、カノーはぼうぜんと白い光のなかに立ち尽くした。

　光がうせたあとには、衛兵が流した血の跡も残っていない。カノーは戻ってきた手足の感覚を確かめるように歩き始めた。
「サカザキ」
　かすれた声でつぶやきながら足をひきずる。
　そうだ。坂崎義行に会えば、自分がだれか、この世界が何なのかがわかるかもしれない。カノーは緋色のマントをかけなおすと、武骨な剣を右手にさげたまま歩きだした。
　なんだ。このぶざまな格好は。
　なにが神官だ。
　神官が剣をふりまわしていいと思っているのか。
　心の中に神官という言葉を浮かべると同時に、ふたたび見知らぬデータがローディングされはじめた。
　カノーは逆らわずに目をつぶった。脳裏に自分がまとっているのと同じ緋色のマントが現れる。
　……神官。「賢者の石」を使いこなし、最終段階で力を発揮する者。ただし、成長は非常に遅く、最初のうちは体力だけがとりえである。
「ば、ばかにしやがって！　こんなところにいてたまるもんか」
　カノーはめくらめっぽうに走り回り、上の階に昇るエレベーターに飛び込むと、ぬめぬめと光った石の壁を腹立ちまぎれにけとばした。

　　＊

　坂崎義行はうずくまったまま前をみつめていた。
　薄暮のなかに、いくつもの別れ道がみえる。どれもはっきりとはせず、それでいてなにやら懐かしい色彩にみちている。
　道のひとつひとつが自分の脳、今はこの世界のどこかの記憶領域に移された脳につながっていることに、義行はぼんやりと気づいていた。
「おれの脳のなかに親父の遺産があるはずだ。どこだ」
　義行はいまやすべてを思い出していた。額にかかる姉の細い指も、アラカミの神のごときごう慢な振る舞いも。
　思い出したあとには、戦いだけが残った。
　義行は顔をあげ、いちばん細く曲がりくねった道を選んだ。それしかないと思ったからだ。自分と親父の間には、ふつうの家族の語らいはなかった。ただ、同じ才能を持った者同士の尊敬だけはあったと思う。

　義行は選んだ道を突き当たりまで走りきると、そのむこうに向かって飛び込んだ。

　　＊

「リーナーッ……」
　義行は、自分が声の限りに叫ぶのを聞いていた。はじけたモンスターのカケラがパーティを襲う。血の赤が視界いっぱいにひろがり、一瞬目がみえぬ恐怖におそわれた。
　と、手にあたるものがある。
　呪文盤だ。
　それも以前に使っていたものよりふたまわりも大きくて厚い。
　停止した時間が動きはじめた。
　義行は手探りで呪文盤をとりあげると、慣れた手つきで作動させた。
「リナ！」
　マーリの金きり声が響き渡った。リナのしなやかな体が爆発のいきおいでモンスターからはじきだされ、ダンジョンの壁にたたきつけられる。マーリがリナの細い手をつかまえたとき、義行の呪文が成就した。
　モンスターが爆裂するいきおいを上まわる炎の壁がたちあがる。義行は炎の壁をモンスターにむかってたたきつけた。

「ひでぇや。乱暴者！」
　それでもほほえみながらマーリが瓦礫のなかから顔を出す。髪がくしゃくしゃに乱れており、体の下にはぐったりしたリナが白い頬をのぞかせていた。義行は顔に浴びた血をぬぐい、呪文盤を抱え込んだ。
「おまえの呪文盤でやったの？　こりゃすごい。再生したのね」
「いや、ちがうのを見つけたんだ」
「どこにあったのさ」
「おれの頭のなかだ」
　義行は髪につもった埃をはたきおとし、マーリの手をとって立たせた。
　ダンジョンの壁がぶち抜け、むこうの通路がまるみえだ。天井から絶え間なくパラパラと土ぼこりが落ちてくる。ふたたび床がみしみしと音をたて始める。
「やばいな。崩れそうだ」
　義行がそういったとたん、すぐ前の床ががくんとくずれおちた。

　　＊

　カノーはいきなり天井がぬけたショックに不覚にも座り込んでしまった。例によって頭のなかに何者かが浮かび出て、ご丁寧に頭上にシールドをはる。
　透明なプリーストのシールドの上に瓦礫といっしょに三人の男女がふってくる。瓦礫はシールドの両わきにずるずると滑り落ち、人間型のものが上に折り重なった。
「おれは腰がぬけているんだ。もうどうにでもしてくれ」
　カノーは半分やけくそになってつぶやく。気色悪い衛兵のあとは人間型のモンスターか？　まてよ。いや。これは本当の人間じゃないか。
　目をこらす。男の顔は血だらけだが、どこか見覚えがあった。
　サカザキ　ヨシユキ　だ。
　頭の中で声がつげた。
「うるさい。指図しないでくれ」
　カノーはクタクタの足を投げ出したまま、今度は自分の意志でシールドを消去した。
　本物の女の体がふってきた。
「なにするのよ。あたしにさわらないで！」
　頬に食らった平手打ちに、カノーはようやく現実感を覚えた。
　カノーは懐かしいものでも抱くように、わめき散らす女の体を抱きしめ、そっと床におろした。
　サカザキヨシユキは、もうひとりの女を抱えて目の前に立っている。と、サカザキの口が動き、左手が印をむすんだ。
　カノーは反射的に手をふりあげたが、何も起こらなかった。サカザキは呪文を唱えおえ、効果が現れるのを待っている。
　かすかに赤い光がきらめき、それが姿を現した。
「これはなに？　新しいお宝？」
　降ってきた女がほうっと息を飲んでつぶやく。
　血のように赤い石のホログラムが宙に浮き、暗いダンジョンの光をあびて七色に反射している。
　カノーは鼻をならした。
　みごとなものだ。女でなくても欲しくなる。美しい。手をのばそうとしたとたん、カノーの口が勝手に動いた。
「ほう、賢者の石ですね」
　落ち着いた低音で、カノーの声とは似ても似つかない。女が光の反射にひきつけられるように手をのばした。
　サカザキは女のほうにむきなおった。
「こら。マーリ、手をのばすな。ただのホログラムだよ。これは新しいお宝じゃない。古い、古い石なんだ」
「古いって？」
「ああ。この世界が出来たときに、この石も作られた。賢者の石を手に入れることが、冒険者たちの最初の目的だった」
　サカザキの声の調子が変わるのをカノーの中のマキムラは見逃さなかった。サカザキはつづけた。
「ダンジョンの最下界、〔ゲート〕でこれを使う」
「そうだ。あの部屋でこれを使えば……」
　カノーの口から再び老いた声が出る。
　サカザキは初めて気づいたようにカノーを見つめた。
「プリーストか？　いや、神官だな。
　君の呪文盤をみせてくれないか？」

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（広木春子）