６
「ねえ、なんでバーチャル空間にいるのに、わざわざキーボードなんか使うのかな。せっかくバーチャルな空間にいるんだから、他にもいい方法がありそうなのに。キーボードなんて、前世紀の遺物じゃないか」
「それはね、人間の脳は、物事を系統立てて考えるようにはできていないからなのよ。たとえば、判りきっているプログラム・ルーチンを作っている場合、すでに脳は別のことを考えていることが多いの。だから、脳からの指令は一定じゃなくて、筋道の通ったプログラムは構成不可能ってわけ」
「ふうん、そういうものなの？」
「ええ。アクセスプラグによって人間の反応速度が上がっても、それは運動神経に関係した側面で速度が上がっているだけで、思考の面ではそれほどじゃないのね。だから、思考をまとめるために、キーボードという媒体を介してプログラミングをおこなうのよ」
「じゃあ、バーチャル空間で使ってるキーボードって、どこにつながっているの？」
「さあ、どこかなあ」
「だって、バーチャル空間は、アクセスプラグを通して脳に直接与えられる刺激によって、ぼくらの頭の中に作られるものなわけでしょ？　そのバーチャル空間の中で使うキーボードも、やっぱりぼくらの頭の中にあるわけだから、それを使うってことは……」
「難しいことを考えるのね、ヨシユキちゃんは」
「ヨシユキちゃん…」
「ヨシユキ…」
「ヨシユキ、しっかりして」
　義行は、目を開けた。
「ヨシユキ、大丈夫？」
　目の前には、血で汚れたマーリの顔がある。一瞬遅れて、記憶が蘇ってきた。
　果ての迷宮。
　巨大な不定形のモンスター。
　大爆発。
　そして……？
「さっきの自爆モンスターがまた来るの、はやく起きて！」
　義行は言われるまま、体を起こした。
「リナ！　ヨシユキは大丈夫、引き上げるわよ！」
　義行は、マーリが声をかけた方向を見た。リナが呪文盤を手に、押し寄せてくる巨大なモンスターと対峙している。白濁して不透明なゲル状の物体が、ゆっくりとリナに覆い被さろうとしていた。
「危ない！」
　マーリは弓を引き絞ると、矢をモンスターに向けて放った。しかし、矢はモンスターに吸い込まれただけで、何の効果もない。
　リナは不定形のモンスターに背を向けて走り出した。と、そのリナに向かって、ムチのようにしなる触手がモンスターから伸び、リナの足をとらえる。
「リナ！」
　マーリの悲痛な声が響いた。
　転倒したリナの体が、白濁したモンスターの中に、ゆっくりと取り込まれていく。
　義行はとっさに呪文盤を探したが、どこにも見当たらない。次第に頭がはっきりしてくるにつれて、さっきの爆発のときに、呪文盤を盾がわりに使って壊してしまったことを思い出した。
「リナ、いま行く！」
「だめよ！　ヨシユキ、逃げて！」
　走り寄りかけた義行に向かって、リナが声の限りに叫ぶ。彼女はモンスターに取り込まれながらも、呪文盤を操作していた。
「いけない！　また爆発が…」
　リナは、穏やかな表情で義行を見つめていた。
（大丈夫……助けに来てくれるよね？）
「リナ！！」
　リナの呪文は完成した。呪文によって生み出された黒い粒がモンスターにぶつかり、モンスターはまるで氷の像が溶けていくように、分解されていく。と、モンスターの白濁した体が、内側から赤熱した鉄の色に変わっていった。
（あいつを倒してくれるよね？）
「リーナーッ！！」
　義行の声は、爆発の音にかき消された。はじけたモンスターのかけらが義行を吹き飛ばし、すべてが赤く染まる。
　そして、時間が止まった。
　すべてが停止した場所に、義行はぽっかりと浮かんでいる。
　リナ…レイナ…真理奈……おねえちゃん……。
　義行は、反射的に虚空を抱きしめる。あの白い肌。ぬくもり。
　そう、あの時もそうだった。あの時も………。僕はあの時、あそこにいて……そして…大切な人を失った…そう、思い出したぞ。
　僕は………。

　二〇五五年、実時間で六年前。場所はＲＳリサーチ社の研究室。
「さて、皆さん揃われましたかな？」
　頭がきれいに禿げ上がった老人、ＲＳリサーチ社の顧問である松田が口を開いた。
「ずいぶん変わった取り合わせの会合ですな、松田さん。我々はまだしも、子供が二人も混ざっているとは」
　白髪がちの頭髪を丁寧になでつけた牧村が、ちらりと坂崎姉弟を見やった。母親の美貌を受け継いだ十五歳の坂崎真理奈は、あどけなさの残る顔に大人びた表情を浮かべ、十三歳になる弟の義行の手を握っていた。
「まあまあ、今回のパラ・トキオ企画は、この二人の天才児による発案なのだからね。この場にいてもらうのは当然のことだろう。いやいや、さすが、サイ・トキオの主任技師である坂崎ご夫妻のお子さんだよ」
　松田は、ほっほっほと、乾いた声で笑った。
「本来これは、ビジネス上で非常に高度な機密を要するものです。まあ、我が社の筆頭株主である松田さんが『どうしても』とおっしゃったので、今回はこのような形をとらせていただいていますが。我が社がこのビジネスで覇権を握るためには……」
　サイ・トキオの運営母体であるサイバーラボ社の取締役、荒神が言った。荒神は牧村より一〇歳も若かったが、髪を銀色に染めているために老けて見える。
「荒神君、覇権だの何だのという話はやめてくれないか。何度も言うようだが、私にとってはビジネスなどはどうでもよくてね。皆が楽しめればそれでいいのだよ。パラ・トキオは、サイバーシティ内での娯楽として、新たな金字塔を打ち立てることになるだろう」
　松田の言葉に、荒神は愛想笑いを浮かべて目をそらした。
　鋭角的な顎をポリポリ掻きながらしばらく視線を泳がせた荒神は、坂崎真理奈に目を止めると、彼女の体をなめ回すように見てから、しゃがれた声で言った。
「すごいねえ、君がパラ・トキオを考えたのかい……」
　真理奈は一瞬荒神に目を向けたが、何も言わずに両親の顔を見上げた。
「まあ、論より証拠、さっそくやってみようじゃないか。坂崎君、説明を頼む」
　松田の言葉に従って、坂崎健太郎が立ち上がった。
「はい。今回は、ＲＳリサーチ組とサイバーラボ組に別れる形で、対戦をしていただきます。まずＲＳリサーチ組ですが、松田さん、牧村さん、それにテストプレイヤーに立候補していただいた佐藤さんと宮上さんには、パラ・トキオ内に隠された『賢者の石』を見つけ出していただきます。対するサイバーラボ組ですが、荒神さん、私、娘の真理奈と息子の義行というチームで、やはり『賢者の石』を追いかけます。先に見つけたチームが勝ち、というルールになりますので、皆さん頑張りましょう」
「開発者が相手というのは、分が悪いですねえ」
　若いＲＳリサーチ社の技師、佐藤が苦笑いを浮かべた。
「ご心配なく。既存のゲームと違い、ゲームバランスを自動的に修正するシステムになっていますので、対戦はかなり白熱したものになると思いますよ。ゲーム内のシナリオも、自動生成ルーチンによって無限の広がりを持っています。サイ・トキオと体感時間を比較すると、約三倍の時間伸長をおこなっていますので、無限のシナリオを堪能する時間は十分にあるはずです」
「奥さんはどうなさるんですか？」
　ＲＳリサーチ社の女性研究員、宮上が言った。
「私は、モニタリングのためにここにとどまります。今後のために、いろいろデータが必要ですから」
　坂崎陽子が、にっこりと微笑む。
「さあ、ゲームを始めますよ」

　同じベッドの中で、義行は姉の体をしっかりと抱きしめていた。白く柔らかい肌からは、何とも言えない甘い香りが漂ってくる。姉の肌のぬくもりとなめらかさを確かめるように、義行は姉の体をまさぐった。
「どうしたの？」
　真理奈が目を覚まし、言った。
「…なんでもないよ」
「この甘えん坊」
　姉は義行の背中をそっと抱いてくれた。
「ねえ、レイナ」
　義行は、バーチャル世界で姉が使っているその名前の響きが、とても好きだった。
「なに？」
「ずっと一緒にいてくれるよね？」
　義行は姉の胸から顔を上げた。姉は少し戸惑ったような顔で、義行を見ている。
「ね？」
「だめ」
「どうして？」
「だって、私たち、姉弟でしょ。ずっと一緒になんかいられないよ」
「ここにいれば？　ここにいれば時間はたくさんあるし、ずっと一緒に……」
「だーめ。ここで遊ぶのもそれは楽しいけど、こういう場所をプログラムで作っているほうが面白いじゃない……」
　と、部屋のドアがノックされた。
「誰？」
「荒神だ。夜中に申し訳ないんだが、ちょっと話があるんだ」
「ちょっと待ってください」
　真理奈はベッドから出ると、月明かりに裸身をさらしながら、枕元に置いていたキーボードを叩いた。瞬時に彼女の体のまわりには衣服が出現する。
　真理奈が部屋の扉を開けると、銀髪で背の高い、鋭角的な顎をした男が姿をあらわした。荒神だ。
「やあ、きみのお父さんに聞いたんだが、このパラ・トキオの自己拡張機能を考え出したのが君なんだって？　私はてっきり、この世界のデザインをやっただけなのかと思っていたよ。驚いたな、すごい才能だ」
「お父さんもお母さんも弟も、みんなで手伝ってくれたんです。私だけの力じゃできませんでした」
「いやいや、きみには才能があるよ。いつか、いっしょに仕事ができたらいいね」
「一緒に…仕事？」
「そう、興味があるかい？　実はね、このパラ・トキオをもっとすごい場所にしたいと思っているんだよ。ぜひ、きみの力を借りたい」
　真理奈はちょっといぶかしげな表情を浮かべた。
「でも、お父さんやお母さんが何ていうか……」
「大丈夫、ここに来る前に話をしたのだけれど、ふたりとも喜んでくれているよ。すぐにはじめてもらいたいそうだ」
「すぐ…？」
　荒神は真理奈の手をとる。
「さあ、行こうか、真理奈……」
　こうして、姉は去っていった。
　一人で残された義行のところに、しばらくして慌てた様子の坂崎健太郎が姿を現わした。
「おかしい。信じられないような速度で、パラ・トキオ世界が拡張を続けている。プレイヤー間の均衡をたもつためのバランサーも、おかしなことになっているようなんだ。このままでは、誰も………なんだ、真理奈はいないのか。義行、真理奈はどこに行った？」
「さっき、一緒に仕事をするんだと言って、荒神さんと行っちゃったけど…」
　義行の言葉に、坂崎健太郎は険しい表情になった。
「くそっ。荒神のやつ…」
「お父さん、どうしたの？」
　坂崎健太郎はため息をつきながら、息子の頬を両手でつかみ、自分のほうへと引き寄せた。
「義行、お前の知恵も貸してくれ。いいか、今の状況は、こうだ……」
　パラ・トキオのシステムに与えられた命令は、基本的に三つあった。ファンタジーゲームの世界を提供すること。プレイヤーが飽きないようにシナリオを生み出し続けること。そして、あるプレイヤーが先行しすぎないように難易度を調整すること。
　最初に技術者たちによってテストがおこなわれた際には、システムは順調に動作していた。ところが、テストのために何度もログイン・ログオフが繰り返されるうちに、システムは気付いたのだ。プレイヤー間のバランスをたもつことを困難にする最大の問題点は、プレイヤーが予測不能なタイミングでパラ・トキオ・システム内から消えてしまうところにある、と。
　そして、システムは自己拡張を続ける過程で、非常に効率の良い方法を発見した。
　プレイヤーをゲーム世界から外に出さない。
　システムはプレイヤーの制御をつかさどる電気的刺激がどこからくるのかを逆検索し、その末端部分…すなわち脳をシステム内にコピーしてしまったのだ。こうしてプレイヤーはシステムの中に永遠に存在することとなり、誰かが「勝」ってゲームが終わってしまうことを避けるために、永遠にシナリオを生み出し続けるようになった。
　ゲームに参加した八人は、パラ・トキオ・システムに捕らえられてしまったのだ。
「そんなの、変だよ。脳のマッピングは現段階で無理だって、この間のネットニュースで言ってたよ」
「しかし、実現に近づいているとも言っていた。現に、俺は自分のプレイヤーとしての命令がどこから来ているかをトレースしてみたんだ。間違いない。俺たちは、パラ・トキオ内にいる。奇妙な感じだが、今こうして考えている俺たちの脳は、コンピュータの大規模記憶装置の中に存在しているんだ」
「外にお母さんがいるんだから、助けてもらえばいいじゃない」
「外との連絡は完全に遮断されている。どうしようもないんだよ…」
　坂崎健太郎は、息子を抱きしめた。

「わからんのかね、ここの素晴らしさを！」
　みずからが築いた神殿に立った荒神は、高らかに笑った。
「ここは永遠なのだ。肉体が滅ぶ死を心配することもない。ネットワークが存在し続ける限り、楽しく暮らすことができるのだよ。そう、神になれるのだ！」
「愚かな。こんなおもちゃの世界が楽しいなどと、狂気の沙汰ではないか。どんなに緻密な世界だとは言え、しょせんは箱庭にすぎん」
　松田老人が吐き捨てるように言った。
「何とでも言うがいい。実時間の一日は、ここでの一ヶ月に匹敵するのだ。いつか肉体に帰るとしても、帰るまでの間にどれほど有意義な時間を過ごせると思っているのだ？　そもそも松田さん、サイ・シティの究極の目的は、ここにあるのだよ。あんたがどう考えていたかは知らないが、いずれすべてがサイ・シティを中心に動くようになる。サイ・シティなしでは何も成り立たなくなる。そして私は、そのサイ・シティの神になるのだ！」
「…荒神さん、あなたががここで何をしようが構いません。私たちと、娘を解放してください。真理奈はどこにいるんです？」
　坂崎健太郎が言った。
「さすがに、一人ではさみしいのでね。皆さんにはここに残っていただく。それから真理奈だが、彼女は自分から私と一緒にいることを望んでくれている。私が偉大なる支配者となるための、手伝いをしてくれるそうだ」
「あんたは狂っている……真理奈がそんなことに同意するはずはない！」
　坂崎健太郎が叫んだ時、神殿の中央に真理奈の姿が幻のように浮かび上がった。
「お父さん、私は荒神さんに捕まってしまったの。私は逃げることができない。でも、みんなは逃げ出すことができるはずよ。パラ・トキオの強制リセットコマンドを覚えている？　パラ・トキオが再起動する前に、マッピングされた脳の情報を体に戻すように割り込みをかければ…」
「黙れ！　それよりも先に肉体へ過電流を流してやる。帰るべき肉体が失われてしまうようにな。それに真理奈！　甘い顔を見せて少し自由を与えたらこれだ。お仕置きに当分は何もさせてやらんから、そう思え！」
　荒神が吠える。
「あんたに、そんな高度なプログラミングができるものか！」
「できるさ。私はマッピングされた真理奈の知識を参照できるんだからな」
　坂崎健太郎と荒神は同時にキーボードを取り出すと、プログラムを書き始めた。
「宮上さん、佐藤さん、手伝ってください！　パラ・トキオ内にロードされている我々の脳のデータ位置を割り出すんです！　義行、お前も手伝ってくれ！」
「だめ、間に合わない。今のペースだと、再起動の前に七人の体が駄目になっちゃう！　急いでも二人しか助からないわ……」
　真理奈の幻が悲痛な声を上げる。
「今の順番では、誰の体が最後に残るんだ？」
「牧村さんが最後、その前が義行よ！」
「ええい、邪魔くさい。真理奈、黙っていろ！」
　荒神が目をギラギラと輝かせながら怒鳴る。
「坂崎さん、脳データの位置を特定しました！」
　宮上の声に、坂崎健太郎が応える。
「知識部分のデータの抽出を頼む！」
「坂崎、生き残りの脳の未使用領域に、データを避難させる気だな？　させるか！　その前に、貴様の脳のデータを消去してやる！」
　叫ぶ荒神の表情は、いよいよ狂気の度を増していた。
「抽出完了！」
「よし、再起動の手順も完了！　現在、ログの保存中。再起動までもうちょいだ！」
「いけない！　荒神は過電流を流す順番を変更したわ！　最後は義行よ！」
「くそ、なんだって？　もうこっちの変更は間に合わない……」
　そこまで言ったところで、坂崎健太郎の姿は消滅した。
「ははっ！　消してやったぞ！　ざまあ見ろ！」
　荒神は下卑た笑い声を上げる。
「坂崎君！」
　松田の叫び声は、神殿の中にむなしく響くだけだった。
　真理奈は悲しげに目を閉じたが、すぐに決然とした様子で目を開けた。
「義行、あなたは生き残るの。いいわね……あ…あなた、お父さんの知識部分を自分の脳の未使用領域に移したのね？」
　義行はうなずいた。
「偉いわ。頑張るのよ。いつか必ず荒神を滅ぼして、私をここから連れ出してね…私のかわいい……義行ちゃん………」
　真理奈の幻が、そっと義行のほうに手を伸ばす。
　彼女の手が義行に届こうとしたその瞬間、すべては闇に包まれた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（滝澤真実）