２
　　　　＊
　水音が見える。
　波紋が聞こえる。
　ひろがっていく波が五感を融合させてゆく。
　ダイブの時の感触は、何度経験しても慣れきることができない。時間をさかのぼるような感覚。自分が一個の受精卵にまで還元されていくような。
　大地の硬さを足の裏に受けとめる。大事なことはどちらが上でどちらが下なのかを明確にイメージすることだ。そうすれば、電脳世界――サイ・シティでも、現実世界とかわらぬようにふるまうことができる。
　と――
　顔をあげた義行の目の前に銀光がひらめいた。思わずのけぞり、その勢いで後ろによろけた。
　なんだ、これは！？
　理性よりも恐怖の感情が先にたつ。巨大な赤黒い肉塊。人間ではない。顔らしきものはあるが、目も鼻も口も、あるべきところにない。溶けくずれた筋がたれさがり、顔面のパーツはいびつに歪んで配置されている。
　かなりの巨体だ。義行よりも頭ひとつ以上大きい。筋肉が腐り落ち、骨が見えている。だが、爪は鋭く、膂力もありそうだ。身体のあちこちに、崩れた顔のようなものが見える。苦悶の表情をうかべた無数の顔。
　げはあ
　怪物が崩壊した顔面をふるわせ、左にかたむいた口唇部をひらいた。びっしりと並んだ歯は血まみれだ。視線を怪物の足もとに動かすと、散乱しているのは人間の腕や脚だ。どうやら食事中だったらしい。
　それにしても、こんな怪物がサイ・トキオに棲息していたなどという話は聞いたことがない。悪質なウィルスがアクセス中の人間のパーソナルデータを書き換えて、狂暴化したり、命を奪ったりするケースはよく聞かれるが、ここまであからさまに外観を変化させるというのは初耳だ。いったい、どういうプログラムのテクニックを使っているのだろう――
　などと考えている時間はなかった。
　怪物は義行に興味を持ったようだった。悪臭まみれの口を大きく開くと、義行の頭部をのみこもうと迫ってきた。
　無意識に義行は歯の裏を舌で叩いていた。レイナに緊急防御措置を命じる。
　――反応なし。
「レイナ！　強制ログアウトだ！」
　音声によるコマンドを発令しつつ、義行は地面を蹴って背面に飛んでいる。
　だが、ログアウトは実行されない。
　目の前に、巨大な顎（あぎと）が迫っている。ちくしょう、ダミースーツの機能さえ万全ならば、こんな動き、かんたんに見きれるものを！
　死の直前に完全に静止し、白熱した義行の思考を、電光のきらめきが寸断した。
　顔面十センチ前で、怪物の頭部が粉砕される。口だけが最後まで原型をとどめていたが、それもコンマ数秒で消滅する。
　なにが起こったのか。
　ごくゆっくりとした動きでしりもちをつきながら、義行は近づいてくる足音をぼんやりと聞いていた。
「あんた、大丈夫？」
　若い女の声だ。義行を覗きこんでくる。
「なんで丸腰で、しかもラルヴァの目の前にダイブしてきたわけ？　まあ、おかげで簡単にやつの隙をつけたんだけどさ」
　よく陽にやけた、精悍なムードのある顔だちだった。赤みがかった髪を短く裁ち、まるで少年のように鼻の頭に汗をうかべている。ダミースーツは、なめし革ふうの鎧だ。その下に草色のシャツと白のぴったりとしたズボンを穿いている。手には小振りなボウガンを持っている。
　義行の視線に気がついたのか、女はボウガンをひらひらと振ってみせた。
「いいだろ？　矢は対妖魔呪符つき。ラルヴァのような悪霊系の怪物なら一発さ」
　頭部を失った怪物は、しばらく四肢をひくつかせていたが、ゆっくりとその姿を消滅させていく。残ったのは黒い四角形の石が数個だけ。
　女の手が素早くそれを拾いあげる。
「それは？」
「知らないの？」
　女は目をまるくした。そんな表情をうかべると、ずいぶん幼い印象を与える。実際、若いのだろう。ふと、義行の記憶が刺激される。この感じ、なんだろう。
「チップ――お金みたいなものよ。このパラ・トキオのね」
「パラ・トキオだって？　ちょっと待った、ここはサイ・トキオじゃないのか？」
　女はちょっと首をかしげ、めずらしい動物を観察するように義行を見おろした。
「あんた、アホ？　サイ・トキオなんて、神話伝説のたぐいじゃない。ここはパラ・トキオ。怪物が跳梁し、あたしたちのようなハンターがおもしろおかしく暮らす本物の世界だわよ。あんたはそうじゃないの？」
「どういうことなんだ……」
　義行は茫然とし、そして気がついた。レイナとアクセスできないのも、ここが通常の電脳空間ではないからだろう。
　ふと、あちこちに冷気がわきおこったように感じた。
　すぐそばで、女が舌うちをする。
「このへんはラルヴァのエサ場みたいね。うじゃうじゃ出てきそうだわ｣
　たしかに、グズグズの肉塊のような怪物が地面から生えだしつつある。四体、五体、それ以上――
「やばい、逃げましょ。あんたも、死にたくなかったらね」
　女が義行の手を引く。その感触がなぜか懐かしかった。

　　　　＊＊
　女は、ハンターのマーリであると名乗った。そして、義行を町まで案内してくれた。
　パラ・トキオの町は、サイ・トキオとはまったく異質だった。
　ぬかるんだ通り、石造りの建物、煙ばかりがたちこめる繁華街。人の多さだけはおなじだが、住民の構成がずいぶんとちがう。
　あきらかにファンタジーロールプレイングの世界観ですべてがデザインされている。一目で冒険者とわかるいでたちの荒くれ者たちがのし歩き、たまに人間には見えない種族もまざっている。ホビットやエルフといった異形の者たちだ。義行は観光客さながらにあちこちを見まわしながら歩き、マーリから叱責された。
　ひとまずは、マーリが常宿にしているという食堂兼酒場に行くことにした。
「マーリ！」
　店に入るなり、高くて細い声で呼びかけられた。
　聖職者ふうの白いローブをまとった少女である。少し細面で、肌の色がおどろくほど白い。というより、ほとんど青白いとさえいえる。しかし、一見するだけで、マーリとの相似に気がつかされる。
「リナ、今日は起きていてもだいじょうぶなの？」
「ええ。でも、またないしょで狩りに出たのね。あぶないからやめてって、あんなに言ったのに｣
　ふたりの少女はしばし見つめあっていた。髪の色はややマーリの方が明るいが、顔形、体つき、声までもがそっくりだ。双子であることがすぐにわかる。
「まあまあ、そういわないでよ。宿代や食事代もかかるんだしさ。それに、今日はけっこう稼げたのよ。この人のおかげもあってね｣
　と、義行のほうを指さす。
　リナはようやく義行に気がつき、そして瞬時に顔を赤くした。あわててマーリの背中に隠れるようにする。人見知りする性格らしい。
「リナってば、あいかわらず男に免疫ないわねえ――ま、いいけど」
　マーリは軽くため息をつくと、義行に向きなおった。
「ヨシユキとかいったわね、どうしてあんなところから突然沸いてでたのか、聞かせてもらえるわよね？　ま、話をするあいだの食事代くらいはもつからさ」

　　　＊＊＊
「ふうん……プログラマーねえ。ていうことは、呪文が使えるんだ、あんた」
　マーリは義行の前歴にいたく興味を抱いたようだった。
「ね、リナ、あんた、古い呪文盤（スペリング・ボード）持ってたわよね。あれ、貸してみ｣
「ええ……」
　リナはうなずき、自分の部屋へ取って返したようだ。しばらくして、てのひらに載るくらいの大きさの薄い板を持ってきた。義行にはそれがなんであるかが一目でわかった。
「これは、ＴＳＤ社のパームトップインターフェイスだな。これがあれば、おれは自在にプログラミングできるぞ」
「やってみせてよ」
　好奇心に瞳を輝かせて、マーリが義行に顔を寄せてくる。義行はキーボードに指をのせると、すごい勢いでコードを打ち込みはじめた。
　灰色の無地にすぎなかった義行のダミースーツが、たちまち銀色の輝きをはなつプレートメイルになった。各種センサーが外界を探知しはじめ、武器になりうるウィルスの自動生成を開始する。
「すごい、すごい、ほんとにプログラムが書けるんだね｣
　マーリは手を叩いてはしゃいだ。リナは呆然として義行の変貌ぶりを見つめている。
「まあな、レイナには及びもつかないが、このタイプのパームトップもそこそこの処理能力はある。プログラムを最適化すれば、まだまだ使えるさ｣
「レイナ……って？」
　めずらしくリナが口をはさんだ。
「レイナっていうのはおれがチューンしたコンピュータさ。レイナとアクセスさえできれば、この世界から脱出することも簡単なのにな」
「レイナって……どういう意味？　恋人の名前だとか｣
　マーリがニヤニヤ笑いながら突っ込んでくる。義行はあわてた。
「ちがう、ちがう。レイナ……ＲＥＮＡというのはＭＡＲＩＮＡという名前の愛称としてつけたんだ。真理奈というのはおれの……」
　義行の心臓がはねた。おれはなにを言おうとしていたのだろう。真理奈というのはだれだ？　家族か？　恋人か？　しかし、そんな人物の記憶はどこにもない。だいたいにして、義行は自分の少年時代のことをなにひとつ思いだせない。気がついたときには公営の養護施設で十五歳の誕生日を祝ってもらっていた。身寄りがなかったのだ。しかし、すでに天才的ともいえるプログラミング技術を持っていた。それからわずかな年数を経ただけで、義行はサイ・トキオ ナンバーワンのプログラマーにまでのぼりつめた。しかし、記憶は戻らないままだ。
　自分の少年期に、いったいなにが起こったのだ？
「ね、この呪文盤を貸してあげるから、あたしたちと組まない？　このへん、たいしたプログラマーがいなくてね。あんたがいれば、町の外の洞窟や塔を制覇できるかもしれない、そしたらあたしら一気に大金持ち！」
　考えにとらわれ黙りこんでいた義行にかまわず、マーリは勢いこんで話しかけてきた。
「すまん……少し考えさせてくれないか？　むろん、助けてもらった礼はするつもりだが、今日のところは休ませてほしい」
「ふぅん……ま、いいけどさ」
　マーリはつまらなさそうに唇をとがらせた。リナは、じっと義行を見つめている。

　　　＊＊＊
　義行は、マーリ、リナ姉妹とは別に部屋を取った。当面はマーリに立て替えてもらわなければならないが、義行が作ったウィルスプログラムの自動生成ルーチンだけでも、充分な謝礼になるだろう。
　木製の、きしみ音のひどいベッドに横たわって、義行は天井を見あげていた。蝋燭の光に照らされるだけの部屋は薄暗い。
　時間が経っても眠りは訪れなかった。まとまらない考えばかりが頭のなかを渦巻いている。
　義行とそっくりな手法を持つ、謎のハッカー。そいつは義行のプロテクトを破ってサイ・バンクから数万クレジットを強奪した。しかし、それほどの手腕があれば、合法的に何百万でも稼げるはずだ。それ以外にもヤツはいろいろな悪さをサイ・トキオ内でしでかしていたらしい。ましてや、義行自身をも狙ってきた。
　そして、義行を捕らえた謎のパペット。振りかえってみると、あれはどうにも警察らしくない。尋問をしていたあの鋼鉄を思わせる声の持ち主は、いったい義行から何を聞き出そうとしていたのか。まして、義行にダイブさせるように仕向けもしている。やつの狙いはいったいなんなのだ。
　なによりも、自分自身の記憶の欠落だ。義行はどんなデータベースにもハッキングできる自信があったが、坂崎義行という人物についてはまるで無知だった。
　どうして自分がここまで天才的なプログラミングができるのか。デュエルに熱中し、ハッカーどもを串刺しにすることに悦楽を感じるのはなぜなのか。そして、コンピューターにレイナという名をつけた動機は――。
　真理奈――
　なにかが、なにかが義行の記憶を刺激している。それは――
　空気が動いた。
　義行の意識が緊張した。部屋の扉が開き、そして閉じられた。だれかがゆっくりと近づいている。義行は眠りこんだふりをしつつ、手許の呪文盤のキートップに指を置いた。テンキーの操作だけで幾つかの攻撃呪文――ウィルス攻撃――ができるようにしておいたのだ。
「あの……もうお休みですか？」
　女の声だ。義行はまぶたをあける。おぼろげな光景のなかに、薄物ひとつまとっただけで立ちすくんでいるのは……
「あなたのお力で、この閉じた世界から、わたしたちを解放していただけませんか」
「リナ……？」
　義行は、少女を見つめて絶句した。細い身体は震えているようだ。切りそろえられた漆黒の髪が濡れて光っているようなのは、風呂をつかったばかりなのか……？
「お願いです、＜夢遣い＞を倒して……！」
　かすかな花の香りを含んだ少女の吐息が、義行にまで届いた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（琴鳴）