プロローグ
　坂崎義行は、舌で歯の裏をリズミカルに叩いた。
　即座に、義行にしか聞こえない柔らかい女声で、返答が返ってくる。
「左上腕部に裂傷、幅七二ミリ、深さ二五ミリ。左腕の機能四〇％低下。腹部に刺傷、幅八ミリ、深さ六ミリ。機能低下は軽微。左頬に裂傷、幅一四ミリ、深さ〇・三ミリ。機能低下はなし。頚部に裂傷、幅八ミリ、深さ〇・一ミリ。機能低下は……」
　義行は先ほどとは違ったリズムで歯の裏を叩き、レポートを停止させた。
　正直、今の一撃は油断していた。敵の腕を切り落としていたので、よもや攻撃を受けるとは思っていなかったのだ。
　どうやら、一筋縄ではいかない相手らしい。
　義行は用心深く右腕一本で剣を構えた。痛む左腕は、だらりと下げたままである。むろん、左腕が使えないように見せるための策略である。デュエルでは、こういった駆け引きが非常に重要になるのだ。
　ここを最後の勝機と見たのか、敵は奇声を発しながら突進してきた。義行は左手を剣に添えると、敵の振り下ろしてきた剣をはね上げ、渾身の力を込めて敵の胴を切った。敵はばったりと倒れ込み、一度起き上がろうとして果たせず、動かなくなった。
　敵は動かなくなったが、無論、死んだわけではない。デュエルの本当の楽しみは、これから始まるのだ。
　義行は舌で針を呼び出す命令を出した。すると、手にしていた剣が針に形を変える。
「ちょっと、待ってくれ…」敵は倒れたまま、うめいた。
　義行はその言葉に応えず、黙って敵の顔を押さえた。
「おい、頼む。それは…」
　義行は、敵の左目に、針を深々と突き立てた。
　敵の悲鳴が響き渡る。
　義行はその悲鳴に背筋がぞくぞくするような快感を覚えながら、刺した針を上下左右に揺らした。
　そこで、唐突に敵のダミースーツが消えた。どうやら、苦痛に耐え兼ねてログオフしたようだ。逃げるとは汚い野郎だ、と義行は内心で罵りながら、ゆっくりと体を起こした。
　と、先ほどの女声が義行に向かって穏やかに告げる。
「警告。セキュリティ上の問題発生。敵による当方のプロテクト解除作業開始。第一次プロテクト突破されました。第二次プロテクト、突破まで推定二〇秒。全プロテクト、突破まで推定七五秒。警告。セキュリティ上の問題発生……」
　義行は唖然とした。
　彼のダミースーツは、すべてが彼のオリジナル・プログラムによって成り立っている。舌で歯の裏を叩くというアクションコマンドも、本来は発声や指の動きによって成り立っている一般のアクションコマンドを、義行自身がカスタマイズしたものなのだ。また、彼のプログラムはプロテクトが固いことでも有名で、某サイ・バンクのマネー・システムにも採用されているほどなのである。
　そのプロテクトを、一分半足らずで突破しようとしているのだ。まさに、驚異としか言いようがない。
「シールド使用、撹乱モジュール起動、侵入経路逆探知開始」声が告げる。「当方の全プロテクト、突破まで推定九〇秒」
　義行は愕然とした。通常、プロテクトの不法な突破〈ハッキング〉に対しては、自分の位置を隠す「シールド」と、相手の突破プログラムの動きを妨害する「撹乱」の二種類の対抗策を用いる。この妨害によって、突破されるまでにかかる時間は激増するはずなのである。しかし、それがさほど効いていないのだ。
「侵入経路の逆探知、完了まで推定一〇秒。当方の全プロテクト、突破まで推定八〇秒」
　何かが義行の頭の隅にひっかかった。この状況、どこかで経験した記憶がある…。義行はめまぐるしく頭を働かせた。
「当方の全プロテクト、突破まで推定七〇秒。侵入経路の逆探知完了、対象のプロテクト解除作業開始」
　思い出せ、思い出せ…。
「当方の全プロテクト、突破まで推定六〇秒」
　瞬間、義行の頭の中で、もろもろの現象が結びついた。この状況は、彼自身がテストのために自らのプロテクトを突破しようとしたときの状況に酷似しているのだ。しかし、なぜ？　ハッキングされない限り、彼のプログラムが他人の手に渡る可能性はない。今現在ハッキングが進行しているのだから、まだ彼のプログラムは人手に渡っているはずはないのだ。
「レイナ」これは、彼がコンピュータの声につけた愛称である。それが、声によるアクションコマンドの開始キーワードでもある。複雑な命令を出す場合には、声によるアクションコマンドを使ったほうが速いのだ。「対象の受信パケットにＣウィルス混入」
「送出完了……Ｃウィルス活動せず。当方の全プロテクト、突破まで推定五〇秒」
「くそっ。レイナ、対象のサイ・トキオ内の位置近辺にジャンプ」
「ジャンプします」
　声とともに、デュエルの会場から視点が瞬間的に切り替わった。ジャンプした先はサイ・セックスの相手を求める人々でごったがえしている繁華街である。
「レイナ、対象はどこだ？」
「対象は左前方。当方の全プロテクト、突破まで推定四〇秒。対象のプロテクト解除作業進行中、完了まで推定六〇秒」
　義行は目を凝らして探した。しかし、見つからない。
「レイナ、対象は移動したか？　見つからないぞ」
「対象は移動していません。当方の全プロテクト、突破まで推定三〇秒」
「畜生、どういうことだ？　レイナ、位置に間違いはないのか？」
「間違いありません」
「レイナ、対象のダミースーツに関する詳細情報を出せ！　大至急だ。プロテクト解除作業は中止していい！」
　思わず大きな声を出した義行を、周囲の人々が驚いたように見た。
「対象を走査中。プロテクト解除作業中止。当方の全プロテクト、突破まで推定二〇秒……対象のダミースーツ、ロスト。対象の位置を再検索開始。完了まで推定五秒」
「ロストだって？　畜生！　どうなってるんだ！」
「対象の位置が判明」
「レイナ、まだ相手のハッキングは続いているのか？」
「はい。当方の全プロテクト、突破まで推定一〇秒。危険、危険……」
「レイナ、対象をＤウィルスで破壊しろ」
「サイ・シティ内でのＤウィルス使用は危険です。対象以外にもダメージを与える可能性があります」
「黙って実行しろ！」
「当方の全プロテクト、突破まで推定五秒。緊急ログオフ手順発動…」
　唐突に、サイ・トキオの繁華街も、そこにいた人々も姿を消した。残されたのは、義行のダミースーツと白い空間だけである。
「緊急ログオフ完了」レイナの声が静かに告げた。
　ネットワークからの接続が切れた状態で、義行はしばらく呆然としていた。不法なデュエルを楽しんでいたところまでは良かったのだ。デュエルだけなら、過去に何度もやってきた。そこには問題などないはずだった。
　それが、あの突然のハッキングである。義行のプログラムに酷似した動き、サイ・シティ内での「見えない」ダミースーツ、消えるダミースーツ。いずれも、理屈の上では不可能なことばかりである。
「レイナ、Ｄウィルスは送ったのか？」
「いいえ。先に緊急ログオフが実行されました」
「そのほうが良かったかも知れないな。レイナ、今の一連の出来事を分析してくれ。俺の作ったプログラムとの類似を知りたい」
「分析中……類似率、九四％」
「なんてこった」義行は思わずうなった。
　義行は、サイ・トキオ屈指のプログラマーという名声を得ている人間である。その義行の作った高度なプログラムが、簡単に真似できるとは思えない。九四％という類似率から考えても、明らかに何らかの手段で盗用されたのだ。
「報告。未知のパペットが二体、部屋に接近しています」レイナが告げた。「タイプＤ−２。警察と推定」
「警察だって？」
「部屋の扉を破って室内に侵入してきました。今……」
　レイナの声が途切れ、義行は現実世界に引き戻された。サイ・シティにアクセスするためのブースで身を起こした義行は、彼の頭部からアクセス・プラグを引き抜いた遠隔制御ロボット〈パペット〉を見上げた。冷たい銀色の輝きを放つ無機的なロボットが、彼を見下ろしている。
「坂崎義行だな」パペットから、おそらく制御者のものと思われる声が響いた。
「そうです…」
「君を逮捕する。君には、サイ・バンクへのハッキングによるマネーの窃盗、サイ・ドラッグの使用、不法娯楽『デュエル』の実行、『デュエル』による三名の致死、サイ・シティにおけるウィルスの使用、ウィルスの使用によるサイ・シティの施設およびダミースーツの破壊、以上六つの犯罪の容疑がかけられている」
「そんな馬鹿な…」
　唖然とする義行の手に、電磁手錠がかけられた。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（滝澤真実）